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【プラモデル】戦艦、航空機、戦車など“神作”まとめ
スケールモデラー歴56年のレジェンドが語る、「模型趣味の継承」と大人が果たすべき役割
1980年代から、「模型趣味をどう一般に広げるか」を考えていた
松本州平「あ、このキットを作りたいな」とか「この塗料や道具を使って作ってみたい」と思える作品を誌面で表現できる人の事だと思います。プラモデル趣味の楽しさが伝わる表現が重要で、上手い下手というのはあまり関係無いですね。
――松本さんは、1980年代に模型雑誌『ホビージャパン』で戦車のプラモデル作品を発表しはじめたとのことですが、模型誌に作例を出すようになった経緯を教えてください。
松本州平学生時代、下宿していたアパートの近くに現アートボックス社長の市村(弘)君が住んでいまして(当時からプラモデル趣味)、よく遊びに行っていました。その後、自分はデザイン事務所に、彼はホビージャパンに就職しまして、彼が「誰か上手いプラモデルを作れる人、居ないですかねえ?」と訪ねてきたので、『マシーネンクリガー』の生みの親である横山宏君(学生時代にアパートの隣に住んでいた)を連れて編集部に行ったのがきっかけです。
――登場する人物が模型界のレジェンドばかりですね。松本さんは模型誌で作例を紹介するうえで、「改造しちゃアカン」といった数々の名セリフを残されています。この真意というのは?
松本州平当時のプラモデル作例記事は、ディテールアップと実機図面に倣った形状修正がほとんどでした。キットの持つテイストを味わったり、純粋に塗装を楽しみ表現する事を記事にするライターがあまりいらっしゃらなかったんです。
――当時は改造が主流だったため、キット本来の味を楽しむために「改造はそこそこにしよう」というメッセージだったのでしょうか。
松本州平作り込みはほどほどに、純粋に塗装を楽しみましょう!各社キットのテイストを味わいませんか?って気持ちをアピールして行けば、プラモデル趣味の楽しみはもっと広がって行くはず…と考えておりました、当時は(苦笑)。
平成初期、今では想像できないほど「スケールモデルは壊滅状態」だった
松本州平大きな節目は平成初期(バブル全盛期)でしょうか。この時代のスケールモデルはほぼ壊滅状態にありました。新製品は少量しかリリースされず、当時の風潮も手伝い“根暗趣味”とレッテルを貼られ、プラモデル趣味は若い後継者も育たずにいました。
――80年代後半は、アニメカルチャーにおいても冬の時代でした。いわゆる「オタク文化」が停滞した要因は何だったのでしょうか。
松本州平自分は経済学者では無いので詳しいことは語れませんが、当時は景気がすこぶる良く、人々が忙しすぎて内向きの趣味であるプラモデルに心が向かなかったのではないでしょうか。次に、コンピューターゲームの登場で子ども達の遊びの選択肢が増えたのも大きな要因でしょう。
――ファミコンの登場は大きいですね。あと、「オタク文化」全体の低迷については、宮崎勤事件の影響も大きいと言われています。ドン底から盛り返したタイミングというのは?
松本州平平成中期辺りから盛り返して、昔では考えられない様なバリエーションの機種がリリースされ始めました。
――子どもの頃に模型を楽しんだ人が、お金を使える年齢になって模型趣味に戻ってきた人も多いと聞いています。
松本州平それもありますが、不景気になって家にいる時間が増えたから、という点も大きいかもしれませんね(苦笑)。
プラモデルは人と繋がる為のツールである
松本州平情景表現、外連味溢れたディテールアップ、実機を可能な限り再現する、架空の機体を作る。また、キットを仮組みして形状を確認して楽しむ、組み立てはそこそこに塗装を楽しんだり…。つまり、「このキットはこう作らねば…」という足枷は無く、人それぞれが自分なりの楽しみ方が出来る趣味であって欲しいです。
――ひとつの流行に縛られず、各々が“自由な模型”を楽しめるのが令和だと。
松本州平模型の傾向に関しては、塗料やツールなど、制作環境は過去には考えられないくらいに進歩してるので、作品の精度や表現の自由度はますます上がって行くでしょうね。
――最後に、模型文化を継承していくうえで、若い模型ファンの拡大は必須です。どうすれば若者モデラーは増えるのでしょうか。
松本州平若者に対して、プラモデルを楽しむ様々なアプローチを提示して行く事と、「プラモデルは人と繋がる為のツールである」という事を忘れず、伝えていくことが必要です。なので、展示会や模型教室の交流などで、プラモデルの多岐にわたる楽しさ、面白さを若者たちに伝えて行く事が大人の役割でしょう。