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『ガラスの仮面』の漫画家アシが語る当時の修羅場 徹夜続きで風呂にも入れず…それでも「悲壮感はなかった」

現役時代は「何を描けばいいかわからず迷走…」、作品の少なさに目を付けられアシに呼ばれる

──笹生先生ご自身は、32歳で商業漫画家をリタイアされたとのことですが、そのあたりも関係しているのでしょうか。

笹生そうですね…私自身は、2人目の子どものタイミングでこれは続けていくのは難しいなと判断しました。もちろん、2人、3人とお子さんがいても継続して仕事をしておられる漫画家さんはたくさんいます。当時の私には、それができなかったということです。20代の頃から、ネーム作りにとても時間がかかり、何を描いたらいいのかと迷走してしまって、現役時代も作品数は少なかったんですよ。で、作品数の少なさに目をつけられて(笑)アシに呼ばれた、という面もありました。

──作中では描かれていないのですが、当時のアシスタントの報酬は、どのようなものだったのですか。

笹生先生によってバラバラでしたよ。基本的には、一晩でいくら、みたいな感じ。山岸凉子先生はいっとき、時給で計算されていたのですが、誰それは仮眠が何時間だったのかとか、混沌としてしまって、やっぱり1晩いくら、に戻りましたね。私は実家暮らしだったこともあり、実はあまり報酬も気にしていなくて、覚えていないので描かなかったというのが近いです。

 でも当時でも、アパートで一人暮らしといったアシスタントさんはいましたし、そういう方はいろいろ計算しながら、自分の作品を描く時間を確保しつつ仕事をされていたのだと思います。私もそうでしたが、当時はデビューしたての新人や、デビュー目前の子が編集さんに紹介されて手伝うパターンが多かったので。

──そうなると、仕事としてアシスタントをする、というよりは、やはり先輩の作品作りをお手伝いする、という意識のほうが強かったのでしょうか。

笹生みんなマンガが大好きな人たちが集まって、ひとつのものに集中して、どんどん作品が生まれていく。みんなですごいものを作っている、その喜びは大きかったですね。今みたいにブラックという言葉もありませんし、労働条件云々とかどうでも良くて。でも当時から、特定の先生の専属アシでやっている方もいらしたので、そういう方々は仕事という感覚もあったでしょうけど。

 ただ、少年漫画に比べたら、シュラバの次元はやはり異なっていたのかもしれません。週刊連載は少なく、月刊や読み切りが多かったので、月に1週間とか10日とか集中してブラックな日々があって、そのあとはしばらく休めるという感覚です。メリハリはありましたけど、ただまあその集中がひどかったな、というね(苦笑)。世の中全体に、精神論というかスポ根的な空気が残っていた時代なんです。私も徹夜で自分の作品を描いていて、眠りそうになったら『アストロ球団』(72〜76年『週刊少年ジャンプ』連載)を開いて、自らを奮い立たせたりしていました(笑)。その後、健康ブームが来て空気が変わりました。身体は大事にしなきゃな、って!

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