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テレビ離れに新聞離れ… 番組表が見られなくなっても60年出版し続ける“TVガイド”の今

 テレビ情報を発信し続けて約60年。現在発行が続くテレビ情報誌で最も古い雑誌と言えば、1962年創刊の『週刊TVガイド』だ。発行しているのは、新聞ラテ欄配信などの事業も行う東京ニュース通信社。同社は『月刊TVガイド』 『デジタルTVガイド』『TVガイドAlpha』『B.L.T.』などのほか、写真集やムックなど幅広く出版を行っている。だが、近年の“テレビ離れ”の影響は情報誌業界全体に打撃も。他誌の廃刊が相次ぐ中、同誌の課題と可能性とは? 『週刊TVガイド』の“今”を知るべく、同社代表取締役社長の奥山卓氏に話を聞いた。

発刊当初は大赤字「『ロケット産業に参入します』というぐらい荒唐無稽な発想だった」

 日本のテレビ放送がスタートしたのは1953年。同社の創始者である奥山清平氏は外国企業の守衛をしており、そこで学んだ英語を駆使して新聞の各紙ダイジェストの英語版を制作、大使館や外資系企業に販売する事業を開始。その後、英字新聞を出すようになり、その流れで日本新聞協会に加盟もしている。

 1960年にカラーテレビの本放送がスタートした頃、創始者の長男・奥山忠氏(現相談役)はアメリカへリサーチに。そこで、次世代は「ギャンブルかテレビのどちらかが来る」と踏み、“テレビ”を選択した。「もしギャンブルを選んでいたら競馬新聞を売る会社になっていたかもしれません(笑)。いずれにせよ、私の父・奥山忠が『これからはテレビだ』と見定め、アメリカの『TV GUIDE』誌と話を。批評ではなくフラットに情報を伝えるそのコンセプトを学び、『週刊TVガイド』を創刊しました」(奥山氏/以下同)
 当時から新聞紙面にテレビ欄があったが、メディアとしての地位は テレビより新聞が圧倒的に上の時代。そんな中、『TVガイド』はテレビ局を地道に取材し、一週間先までの番組情報を取りまとめて発信。地道な作業だったが、まだ家庭にテレビが浸透していなかった時代だったこともあり、大赤字だった。軌道に乗ったのは、1964年。東京五輪の年である。そもそも競技がどんなものなのか知らない日本人が多く、解説する番組もなかった。そこで、当時の同誌で「やり投げ」や「サッカー」など、今では考えられないほど基礎的な部分からの解説を掲載した。

 「弊社は『TVガイド』を出すまで出版社ではありませんでした。それなのに週刊誌を発行することは、大企業でもないのに『ロケット産業に参入します』というぐらい荒唐無稽な発想です。ですが、これを愚直にやり続けた結果の“今”があるのです」

「辞めよう」「不可能」乗り越え、軌道に 『テレビジョン』の台頭でむしろ部数増加

 テレビ情報誌を週刊で出す──これは想像以上に困難だった。そもそもテレビ局の広報ですら一週間後の番組情報を把握してない。役員会では何度も「辞めよう」との声が出た。それでもプロデューサー1人1人に直接取材を行い、記事にした。「テレビ局が今のような力を持つ前から挑んで いったからこそ、人脈づくりが出来た。そうして積み重ねられた信頼は我々の強力な武器でした。また、弊社はどこの資本関係も入っていません。ですから、ジャニーズ事務所の 本を出しながらJO1や韓流といった エンタメ全般にわたる本も出せる。フラットに色々なグループを取り上げる“全方位戦略”が出来たのも大きいかもしれません」

 番組表を作るために、250人以上費やしているという。日本全国の全チャンネルの情報をまとめるのには、想像以上に時間と労力がかかるのだ。そして1982年、ある大きな変化が起こる。『週刊ザテレビジョン』という強力なライバル誌の登場だ。ようやく軌道に乗ったところで窮地に立たされるかと思いきや、強い競合が生まれたことで、逆に部数が伸びたと言う。
「その後多くのテレビ情報誌が生まれ、書店にコーナーが出来、店頭に置かれるようになったのです。さらに競争があることでテレビ情報誌は専門性を持ちながら、それぞれに進化を遂げていきました」

 日本で現在発行されているテレビ情報誌は約15誌。「競合あるところに進化があるとすると、日本以上にテレビ情報誌が進化した国はおそらく他にないかと思います」と奥山氏は語る。その後、番組情報だけでは勝負していけないと早々に舵を切り、エンタメ方面へとシフトして行った。また、月刊誌も創刊された。

「月刊誌をやろうとした時は、今度はテレビ局から『不可能』と言われました(笑)。1ヶ月先の番組表が決まっているわけがないからと。ですが、我々には通信社としての気概と需要への確信があった。初期から手掛けたことで人脈や信頼を駆使し、これを実現させたのです」

 時代を読む努力も怠らなかった。コンビニエンスストアの規模が拡大すると「コンビニで売れるテレビ誌を作ろう」と企画を練った。当時のコンビニの顧客は学生が多かった。お金がない学生でも買える安くて面白い雑誌…。そこで白黒印刷で経費を抑え、当時のサブカルチャー を扱った『TV Bros.』が誕生し、大ヒットした(現在は不定期刊)。

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