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“企画成立屋” 勝俣州和の矜持 とんねるず、ウンナン、ダウンタウンら大物芸人との秘話も
とんねるずと絡んだらウンナンとは“共演NG”だった90年代「何回も潰されかけたけど…」
勝俣州和うーん…これは今だから言えますけど、何回も潰されかけましたよ。当時はそれこそウンナンと仕事したらとんねるずとは仕事しちゃいけない、ダウンタウンとも仕事をしちゃいけないという暗黙のルールが存在していたんです。周辺スタッフが共演者を囲っていたんですね。
――タレントさん本人がNGを出していたわけではなかった?
勝俣州和後々、本人たちに聞いたら、そんなこと一度も言ったことはないって。でも、当時はガッチガチで番組スタッフの偉い人から「どっちを取るんだ。ハッキリしてくれ!」って何度も迫られましたね。そんな時代だったんですよ。今では考えられないですけど(笑)。
――90年代のダウンタウンさん、ウンナンさん、とんねるずさんと言ったら、互いに頂点を極めようとしている過程だったので、当人たち以上に周辺スタッフがピリピリしていたんですね。想像するだけで緊張感が(笑)。
勝俣州和マネージャーとも話すんですけど、大きな事務所じゃなかったのが良かったねって(笑)。ウチは柳葉敏郎さんとか木村多江さんとか俳優さんが多くてバラエティって僕1人なんですよ。だからこそ、ある程度小回りが効いたとも言えますね。もし大きな事務所さんだったら満遍なく共演するということは絶対に無理だったでしょうね。
――とはいえ、同志がいない中たった1人でその道を開拓していくのは相当大変だったのは容易に想像がつきます。
勝俣州和もうね、巨大空母にたった1人ビート板で向かっていくようなもんでしたよ(笑)。
――アハハハハ! 無謀にも程がありますね(笑)。
勝俣州和ただね、巨大空母は攻撃を受けたら沈む可能性がありますけど、ビート板はいくらひっくり返ったって沈まないんですよ。
――なるほど(笑)。
勝俣州和空母は燃料も掛かるでしょ? でも、僕はバタ足さえ死ぬ気で頑張れば何とか前に進める(笑)。
(一同爆笑)
勝俣州和いや、本当にこの大海原をビート板とバタ足だけで生きてきましたからねぇ(しみじみ)。潰されかけはしたけど、一生懸命ちょっとずつでも前に進んでいれば、救ってくれる人や評価してくれる人も現れるんです。例えば、『笑っていいとも!』に出演が決まった際、ディレクターだった荒井(昭博)さんから「タモリさんと若手タレントの繋ぎをかっちゃんがやってくれ!」って任せてくれたんです。あれは嬉しかったですねぇ。
ロケ収録日に大物タレントの怒号! 『気分は上々』でウンナンと交わした“誓い”
勝俣州和あと『ウンナンの気分は上々』の時も、当時はバラエティにガッツリ歌手の方や俳優の方が出ることは無かった時代だったんです。
――確かに、番宣でゲスト的な扱いはあっても、本編に絡むような出演は皆無でしたね。
勝俣州和ロケもバラエティもやったことが無い大御所の方とウンナンの間に僕が入って2泊の旅をするという(笑)。僕ももちろん大御所の方と喋ったことは無くて。
――現在は、俳優さんも歌手の方もバラエティに対してリスペクトを持って臨んでくれますが、当時は…。
勝俣州和まったくすり寄ってくれなかったですから! その大御所の方が「なんでこんな仕事受けたんだ!」ってマネージャーさんと揉めてる所から番組ロケがスタートするという。
――地獄絵図ですね(笑)。
勝俣州和生きた心地はしなかったですけど、なんとか移動中やロケの合間なんかも大御所さんの近くにいて、何気ない会話で徐々に徐々に心を開いてもらって。
――なんとか心をほぐして(笑)。
勝俣州和そうそう(笑)。その当時ウンナンとよく話していたのが、大御所の方が出演してくれた際には「また来てもらえるようにしようね!」って。で、それが現実になってきましたからね。「ウンナンの番組ならまた出たい」って大御所の方も言って下さって。
――それはタレント冥利に尽きますね。
勝俣州和そうやって人気番組でも“練習”させてくれたことは大きかったですね。とんねるずだって『生ダラ』の時、僕司会やらされてましたからね。なんで僕が回すの?ってディレクターに聞いたら、「いや、かっちゃんだったら出来るでしょ?」って軽〜く言われて。でも、実際に回し方や盛り上げ方は覚えてきますから。そうやって超人気番組で練習させてもらったことは僕の財産になってますね。