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キートン山田、44歳で仕事ない時期に出会った『まる子』が転機に 31年完走も「どこまでいっても下積み」
「嫌いじゃないけど、好きな仕事でもなかった…」76歳で引退を決意した理由とは
キートン山田まずは年齢です。今年76歳になりますから。10年くらい前から、終わりを考えていました。仕事ってここで完成っていうものがないわけなので、だとしたら、いつ終わるかは自分で考える。東京に出て来たのが18歳、東京五輪の年でした。なので今回の五輪が決まった時に、五輪から五輪までならば、ひとつの節を自分で決められるかなと。さくら友蔵さんも76歳なんですよね。同い年。まあいろいろな理由を付けているわけです。
――最後の収録を前に、現在はどんなお気持ちですか。
キートン山田今はもうやりきったなあって感じですかね。どこまでいっても完成はないんだって悟りましたよ、いつまでも下積みだなって。嫌いじゃないけれど、それほど好きな仕事でもなかった。大変だから(笑)。手が抜けないんです。視聴者が気づかなくても、こっち側にはここまでいかなきゃいけないボーダーラインがあって、それを毎回やらなくちゃいけなかったからね。
――引き際を想定して働いてたのですか。
キートン山田そうですね。その先って、生き方が難しいじゃないですか。仕事しながらでも生きられるけれど、あと5年なのか10年なのか、先輩たちを見ていても80歳過ぎまでやれるか、とかね。そういうことを考えると、一度フリーになって、準備しないといけないなって思いました。すごく大事なことだなって。ずっと仕事、仕事できてね。そう考えると、片づけって大変ですよ、人生、76年分の片付け。心身ともにシンプルにして、断捨離をして、「いつでもいいよ」っていう準備をしないといけない。それは自分だけではなく、女房、子ども、孫も6人いるので、すっきりしておくことも大きな仕事だろうと。
44歳で「上手い人のまねを辞めた」“何もしないこと”を個性に切り開いたまる子への道
キートン山田遅かったですね。38歳からだから。キートン山田になった年からです。改名した理由は、仕事に行きづまっていたからでね。仕事がなくなり、アルバイトをしたり、学校に教えに行ったり、悶々としていた。若い人がどんどん追い抜いて行ってね。どうしたものかなと。じゃあ、こんな感じでやってみようと思っても、その先には必ず先輩がいて敵わない。そこで一か八か、自分のまんまを出すことにしました。個性がないと言われていたけれど、田舎育ちの貧乏な家庭で育ち、隠して生きてきたものを取っ払って、泥臭い感じで生きて行こうと。カッコつけるのを止めて、キートン山田に改名しました。面白いこと、やりそうなイメージがありますよね。
――喜劇王のバスター・キートンがヒントですよね。
キートン山田僕は二枚目が嫌いだったの(笑)。遊べないので、三枚目、脇役が好きだったから、自分の芸風を決めたかった。それでキートン山田にしました。ぶっちゃけてやっていこう、それでダメだなら辞めようとね。それで突然ナレーションの仕事が来るようになって、44歳の時にまる子が来た。そこで何も考えず、感じたままでストンとしゃべった。それでいこうとなったわけです。
――それが“キートン節”誕生になるわけですよね。
キートン山田ありがたいことですね。自分にとっては何にもしないことが個性だとようやくわかった。それまでは上手い人のまねをしていた。声のいい人を目指していたけれど、しょせん無理でした。だから若い人には、言うんです。「ありのままでいけ、それが個性だ」と。みんな同じ声だと生き残れないですよ。顔も性格も違うわけだから。自分の経験からそこを大事にしなさいと言っています。そういう挫折があって生まれたキートン山田なんです。
キートン山田そうですね。まる子の番宣を録るということで、スタジオに行ったんです。まる子とお姉ちゃんが「あんたがバカだ」「お前がバカだ」とやっているところにナレーションで「あんたがバカである。放送開始」と言う、これがオーディションだった。その時は見本がないわけですよ。ディレクターも前例がないからわからないので、探っている感じが伝わった。それで一発録ったら、ざわざわして(笑)。
――主題歌も含め新しいアニメだったので、計算やリサーチのたまものかと思っていました。
キートン山田現場はそうじゃなかったですね(笑)。この声がハマッたんでしょうね。イメージを超えたんでしょう。2〜3年経ってから、さくらさん含め、そうだと聞きました。でもまさか31年続くとは思っていなかった。人生変わりましたよ。もともとやりたかったことがこれで膨らみました。ありのままでやる仕事、これがキートン山田だって言われたかったので、これでオファーが来るようになった、大きなきっかけを作ってくれた番組。一生に一度あるかないかでしょう。自分のしゃべりが確立されたわけですから。本当はもっとふざけたナレーションもやりたかったんですけどね(笑)。
――キートン山田さんにとって『ちびまる子ちゃん』とはどのような存在でしょうか?
キートン山田これが中心で来ましたからね。31年間、毎週録っていましたから。だから、どうだったかは最終の放送を終えて、スタジオに行かなくなった時に、なんか感じるのでしょうけれど、今は正直まだわからないですね。今はむしろ、中学・高校の卒業式を迎えるようなうれしい気持ちに近い。ようやく卒業するんだみたいなね。毎週でしたから、31年間。もう戻らないわけですからどんな風に思うのかわからないけれど、後悔はない。精一杯やりきりましたよ。
(取材・文/鴇田 崇)