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失敗を“黒歴史”にしない任天堂、『ニンテンドーラボ』で垣間見えた“ヨコイズム”の系譜
【写真】1,250本のファミコンから厳選! “迷作”揃いの「クソゲー」コレクション
スペック勝負は“逃げ道”!? 任天堂がアイデアで勝負する理由
1983年に発売されたファミリーコンピュータ(ファミコン)の全タイトル数については諸説あるが、ソフトの総数は1,250本以上と言われる。フジタ氏は、ファミコンソフトはコンプリートし、ディスクカードもほぼ所有。ゲームソフトのコレクション数は2万本以上、ソフトを集めるのにかけた金額は2千万円以上のガチコレクターであると同時に、青春をファミコンに捧げた屈指のゲーマーでもある。そんなフジタ氏に、尊敬するゲームクリエイターはと聞くと「任天堂の故・横井軍平さん」と即答。
横井氏はゲーム&ウォッチ、ファミコン、ゲームボーイなどの開発に携わったほか、『ヨッシーのクッキー』『Dr.マリオ』『マリオペイント』など名だたる名作のプロデュースも手がけた。まさに“世界の任天堂”の立役者であり、マリオの生みの親・宮本茂の師匠でもある。
「中でも印象深いのはゲーム&ウォッチ『ドンキーコング』のマルチスクリーン。これは画期的な発想で、後に出るニンテンドーDS(2004年)の大成功にも繋がっています。それに、なんといってもゲームボーイの生みの親ですから」とフジタ氏。当時、モノクロ液晶のゲームボーイ(1989年)は売れないと叩かれたが、結局は対抗馬となったゲームギア、PCエンジンGTなどのハイスペック機に圧勝。この時点ですでに、“スペックで他社と勝負しない”という任天堂の考えを見ることができる。
実際、横井氏は1990年代半ばに、家庭用ゲーム機のアイデア不足を指摘。アイデア不足は“逃げ道”としてCPU競争や色競争しかないと、高性能化する家庭用ゲーム機への警鐘を鳴らしていた。「横井さんの言う通り、1990年代後半にもなるとゲーム業界は高性能化を追い求め開発費が膨大に膨らみ、中小のゲーム会社が衰退する原因になりました」(フジタ氏)
ファミコンロボ、サテラビュー、64DD…実は失敗も多い任天堂
開発者は横井氏で、光線銃シリーズの技術を応用し、光信号を直接ロボットの目で受け、内蔵モーターによって動く。当時としてはハイテクな機能を備えた斬新なゲームだったが、ファミコン黎明期の中で埋没した。しかし、光線銃から続くセンサー系の挑戦は任天堂の十八番のひとつとなり、Wii リモコンの成功に結実している点は見逃せない。
また、ファミコンと合体するディスクシステム(1986年)や、スーパーファミコン(1990年)と合体するサテラビュー(1995年)、さらにNINTENDO64(1996年)と合体する64DD(1999年)などもあるが、サテラビューや64DDは商業的な成功を収めるには至っていない。その点、「失敗にへこたれず、“合体”にこだわる任天堂のこだわりは凄い」とフジタ氏。
「ディスクシステムは画期的でした。なにせ、クソゲーを買ってしまっても500円で別のソフトに書き換えができますから!」と熱を帯びるフジタ氏。一方のサテラビューは、あの時代に衛星データ配信でゲームを楽しむという時代を先取った周辺機器。画期的ではあったが、「当時BS放送の受信環境が揃っている家庭も少なかったうえ、プレステやセガサターンなど次世代機への移行時期とも重なり、ほとんど注目されずに終わった」とのこと。
「合体というか、別機能を持った商品を組み合わせて新しいものを創造するのが任天堂」とフジタ氏は分析。話題になっている『ニンテンドーラボ』も、段ボール製のキットとニンテンドースイッチを組み合わせ、ロボット、釣り竿、ハンドル、ピアノといった様々な形状のコントローラに変化させ、ゲームを楽しむというもの。「組み合わせて発展させる遊び心が任天堂の中で受け継がれてきたことも分かる」とも。
継承される“ヨコイズム”で、ちびっ子天才クリエイターが誕生!?
「横井氏は『枯れた技術の水平思考』という哲学を玩具に反映させていました。それは、枯れた技術(ローテク)を使ってアイデアで勝負する考え方。また、横井氏の作品はコミュニケーション性を重視しています。これはファミコンでの対戦ゲームや、ゲームボーイの通信機能に発展しただけでなく、Wiiが家族とのコミュニケーションツールとして人気を博し、世界的ヒットの要因となりました」(フジタ氏)
任天堂は横井氏の退社後も、マリオの生みの親・宮本茂氏や、バルーンファイトなどを開発した天才プログラマーの故・岩田聡氏がこの“ヨコイズム”を継承。高性能化への舵を切らず、アイデア勝負を続けている。
話題となっている『ニンテンドーラボ』は、子どもでもゲームが作れる点でも話題になっている。しかし、任天堂が“ゲームを作れる”ソフトを出したのは初めてではない。1984年に、計算、占い、音楽、メッセージボード機能などを備えたファミコンの周辺機器・ファミリーベーシックを発売。特に革新的だったのが、BASIC言語を使ってゲームを創作できる点だった。TVCMで流れた「キミだけのオリジナルゲームが作れる」というメッセージを覚えている人もいるのでは? フジタ氏も「当時高価だったパソコンが無くてもゲーム制作にチャレンジできた点は画期的」としながらも、「メモリ容量はわずか1982バイト。この容量でプログラムを組むことは小学生には至難の業でした(笑)」と苦笑する。
「商業的にはファミリーベーシックは失敗になると思います。ただ、“ゲームが作れる”という仕組みは、近年大ヒットした『スーパーマリオメーカー』(2015年)にも見られ、そして『ニンテンドーラボ』にも継承されています。子どもがゲームを作る、というアイデアは任天堂がファミコン黎明期からやりたかったことなんですね」と同氏。
伝説の“失敗作”バーチャルボーイに込めた「3D」への夢
その例としてフジタ氏は、「『バーチャルボーイ』(1995年)は任天堂の“挑戦的精神”を具現化した失敗作…いや意欲作!」と語る。まだ牧歌的なゲームも多かった約20年前に、ゴーグル型の画面で立体視に近い映像が楽しめるゲームを発売し、ゲームファンの度肝を抜いた。任天堂の3Dへの挑戦はこの時から始まっている。
「その後、任天堂はニンテンドー3DS(2011年)を発売します。本体自体は売れましたが、3D機能を切ってプレイしていた人がほとんどなのでは(笑)」とフジタ氏が言うように、3Dの良さを引き出すソフトが不足していたこともあり、今では3D機能のない廉価版の2DSが発売されている。
しかし、任天堂はバーチャルボーイの失敗があっても、ゲームキューブに3Dの回路を仕込んだり、アドバンスに立体液晶を埋め込んだりと何度もトライ。今のところ、こだわり続ける3Dゲームの大ヒットはないが、岩田氏の「10年越しのゲーム」という言葉通り、「いずれは任天堂の先進性に時代が追いつき、仕込んできたアイデアが花開くときがくるのでは」とフジタ氏は力説する。
ポケモンGOやニンテンドースイッチの成功、そして『ニンテンドーラボ』への反響など何かと明るい話題が多い任天堂。しかし、ここに至るまでにはWii Uの商業的失敗によるドン底があり、ニンテンドースイッチが社運をかけた勝負であったことを忘れてはならない。そんな中、スペックではライバル機に劣りながらも、あくまでアイデア勝負にこだわった任天堂の“ヨコイズム”。この精神が任天堂で受け継がれている限り、今後も世界中の人々をアッと驚かせる魅力的な“ゲーム”を産み出してくれるはずだ。