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映画『太陽とボレロ』水谷豊監督×町田啓太インタビュー

ユーモアがあって、チャーミング まるで水谷さんのような映画

――映画監督は夢だったんですか?

水谷そうですね。夢でしたね。昔、丹波哲郎さんから「映画に出るのはいいけど、自分で映画を作ろうとするととんでもない目に遭う」と言われたことあったんですよ。(丹波さんのものまねをしながら)「映画を作るのだけはやめた方がいい」って。だから、映画を作りたいなんて考えないようにしていたんですけど、考えないようにしている時点で自分は映画を作りたいんだな、って思っていましたね。

町田素晴らしいですね。僕は周りから「とんでもない目に遭うからやめた方がいい」と言われたら、納得してあきらめてしまうかもしれないです。それよりもこれをやりたいんだ、これを作りたいんだ、という気持ちを持ち続けて、本当に実現しているところが本当にすごいことだと思います。誰にでもできることではない気がします。

水谷いやいや、俳優として現場に入っている時は、いろんな責任を背負わされて、いろんな決断を求められて、監督って大変な仕事だな、って思うんですよ。でも、監督をやってみると、俳優って大変だなと思うんですよ。監督が「吹替なしでいきたい」と言ったら、俳優たちは楽器の練習をしなくちゃいけない。せりふも覚えないといけない。監督がイメージした映像を、キャストとスタッフが一生懸命作り出そうとしてくれている。それを現場で見ているだけでも至福の時間です。
――初監督作となる『TAP-THE LAST SHOW-』(2017年)では若者の青春群像とショービジネスの光と影を、脚本も手掛けた監督第2作『轢き逃げ 最高の最悪な日』(19年)では不幸な事故があらわにする人間の心の奥底を描きました。3作目でクラシック音楽を題材に選ばれたのはどういう経緯があったのでしょうか?

水谷60代のうちにできたらオリジナルの映画を3本撮りたい、と思っていたんですね。一方で、たぶん無理だろう、とも思っていたんです。1作目は、長年やりたかったこと全部、自分の思いの丈(たけ)を詰め込んで作ったんです。2作目はプロデューサーからサスペンスをやってみないかと言われ、『轢き逃げ』になった。その2作目を撮ったあとに、次があるなら、今度はもっとユーモアのある映画を作ろうと思ったんです。それで、いよいよ3本目もできるぞ、となった時に、ふと題材としてクラシックがいいんじゃないかと思いついて。

 でも、クラシックっていうと、ちょっととっつきにくい、固いイメージがあると思うんですね。なので、ど頭でオーケストラのコンサートが始まる直前、トイレから急いで席にもどってきた圭介に「あっちもこっちも間に合った」というせりふを言ってもらいました。そこで、肩ひじ張って見る映画ではないな、と感じてもらえたらいいな、と思って。この映画を導く大事な役割を町田さんにやってもらいました。

町田トイレに行ったり、愚痴ったりする僕らの雑味と、オーケストラが奏でる美しい音楽と、まったくベクトルの異なるものが存在する。どんな映画なんだ? と興味をひかれて、見ていくうちに、水谷さんがおっしゃるようなユーモアがあって、みんなチャーミングで、太陽の光のように温かい。これはもう、本当に水谷さんのような映画だなと思いました。

 できあがった作品を観た時に、僕だけ何か変なタイミングで笑っちゃったり、ほかの人がまた違ったタイミングで笑っていたりして、それがだんだん合わさってきたりして、まるでボレロの演奏のようになっていたのが印象的でした。
――タイトルにある「太陽」と「ボレロ」はどこからですか?

水谷30代の頃に、知り合いに誘われて行ったオーケストラの演奏会で初めて「ボレロ」を聴いて、一瞬で心を奪われました。本当に鳥肌が立つような、すごい演奏でした。あの時の演奏がずっとあったんでしょうね。脚本に取り掛かって、すぐにクライマックスは「ボレロ」になるな、と思いました。

 「太陽」は、いつも僕らにエネルギーを与えてくれる存在。無償の愛を感じるんです。困難なことがあっても、太陽が昇ってきたら、一生懸命生きるしかない。自然にタイトルは「太陽とボレロ」しよう、と決まりました。珍しいケースです。

町田そういえば、僕らのアマチュア交響楽団は「弥生交響楽団」というのですが、ロケをしていた町の旧名称が「弥生」だったと聞いて、それも偶然だったんですよね?

水谷そう! 映画は「弥生市」なんだけど、本当に偶然。脚本を書き上げてから、どこでロケしようか、という話になったし、今は使われていない町名ですからね。大小さまざまな奇跡が重なって映画ってできるんだな、と思いました。

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