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プロレスが立証した”カミングアウト”後の熱狂…リアリティー番組はなぜ倣わなかったか?

  • 打ち切りとなった『TERRACE HOUSE TOKYO 2019-2020』に出演していた木村花さん (C)ORICON NewS inc.

    打ち切りとなった『TERRACE HOUSE TOKYO 2019-2020』に出演していた木村花さん (C)ORICON NewS inc.

 “リアリティーショー”という言葉でくくられた番組は常に時代を席捲して人気を博してきたが、その立ち位置は非常に“曖昧”だ。どこまでが“リアル”で、どこまでが“虚構“なのか──。今回は皮肉にも、プロレスという“リアル”と“虚構”がまじった世界を生き抜いた木村花さんが死を選択した。そしてTwitterでは木村花さんの母・木村響子さんが「どうか 花のことで ご自分を責めないでください他の誰かを 責めないでください なにかを 恨まないでください ヘイトのスパイラルを 止めてください」と発信。これ以上、同様の事態を起こさないために必要な“エンタメへの認識”とは? リアリティーショーと、プロレスのカミングアウトの系譜をたどりながら、今一度考えてみたい。

木村さんの番組での立ち居振る舞いはプロレスラーの本懐だった

 プロレスラーは一般的にベビーフェイス(正義)とヒール(悪役)に分類される。木村花さんはヒール役だ。ヒールレスラーの場合、たとえ試合に来てくれた自分のファンであってもそれを笑顔で迎え入れるのではなく「うるせぇ!!」など暴言を吐く。ヒール役を演じる上でとにかく言葉を選ばず、ネガティブな感情をもむき出しにする。暴言と取れる言葉でも、本音で言うからこそ、ファン(客)の心に響くし、その姿に感動さえする。”ショー”として過酷な役割を担っていることになる。

 そもそもプロレスは“虚構”が入り混じった世界だ。つまりプロレス自体、フェイクであることが前提。ファンは虚構を虚構だと理解した上で、これを消費している。

 『テラスハウス』で木村さんは、ヒール役らしい“素行”で番組を盛り上げた。自身のプロレス衣装を同居の男性に勝手に洗濯され、傷んでしまったことに激怒し、繰り返し謝罪する男性の頭をはたくように帽子を掴み、投げ落とした。“プロフェッショナル”レスラーとしての本懐をしっかりと見せたと言える。つまり、“視聴者をドキドキさせたい”といった番組の“演出”を、ヒールの“プロ”が担っていたことになる。

リアリティーショーという言葉の曖昧な立ち位置

「『テラスハウス』は“リアリティーショー”という番組形態の一つ。リアリティーショーの起源はアメリカであり、1948年の『キャンディード・カメラ』が元祖。日本の『元祖どっきりカメラ』(日本テレビ系)のネタ元となった番組です」と話すのはメディア研究家の衣輪晋一氏。「特徴としてはドキュメンタリー番組の手法を用いて出演者に密着すること。演出はあっても“本物”らしく見せることが重要であり、そこに“リアリティー”という言葉が用いられる理由があります」

 “リアリティー”の意味を辞書『大辞林』で紐解くと、「現実み」「現実性」とある。「この『〜み』『〜性』が重要だ」と衣輪氏。つまりリアル=“現実”なのではない。だがそこに錯覚が起こり、フィクションとノンフィクションの境界の“曖昧”が生まれる。リアリティーショーは、その“曖昧”をうまく利用して、意味を非常に大きくくくっている。

 目立つのは「台本はない」といううたい文句だ。「これはフィクションです」「演出も含まれています」といったカミングアウトは、何か問題が起こった場合を除いてはいない。「なぜ、プロレスのように本格的なカミングアウトをしなかったのか。リアリティーショーとうたう番組たちが、“暗黙の了解”としてこれを重視せず、今まで来てしまったのは非常に罪深いことです」(衣輪氏)

 過去にもバラエティ番組のなかでリアリティーを意識した企画はたくさんあり、どれも人気を博してきた。欧米型リアリティーショーの日本での元祖『進め!電波少年』(日テレ系)をはじめ、『ガチンコ!』の「ガチンコファイトクラブ」や『学校へ行こう!』(いずれもTBS系)の「未成年の主張」など。だが、それはSNSが発達していない時代においてのことで、人々の意見や主義主張が可視化されていなかったから成立していただけという見方もできる。

「実際イギリスでも、2016年から放送されている恋愛リアリティー番組『Love Island(ラブ・アイランド)』で、ネット上での誹謗中傷から、ソフィー・グラントンさん、マイク・タラシティスさんらが自死しています。誰もが自分の意見をSNSで発信できる現代。木村さんの例もそうですが、“曖昧”な概念であることが、演者も視聴者も傷つける形に、すでになってしまっているのです。SNS時代の状況を鑑みたうえで、制作側からの出演者の精神的サポートが叫ばれていますが、対応策はそれだけに限ったものではないはず」(衣輪氏)

カミングアウトしても楽しめることは皮肉にもプロレスが証明している

 ではなぜ、カミングアウトする必要があるのか。プロレスを例に取ってみよう。

 1999年、アメリカでWWF(現在WWE)が翌年の株式公開に向けて「プロレスとはスポーツではなくショーである」とカミングアウト。アメリカのプロレスの特徴は日本に比べてショービジネス要素が強いところで、人気プロレスラー・武藤敬司も「アメリカでは入場から退場までの時間が決められていて、フィニッシュホールドのカメラアングルまで決められている」という言葉を残している。
 
 日本でもその論調が巻き起こり、『ファンタジーファイトWRESTLE-1』、『ハッスル』などエンターテインメント志向のプロレス興行が行われるようになった。また2001年には、新日本プロレスのレフェリーやマッチメイカー、審判部長を務めたミスター高橋氏が『流血の魔術 最強の演技―すべてのプロレスはショーである』(講談社)を上梓。同著で高橋氏は「プロレスは命がけのショーだが、勝敗は最初から決まっている」とカミングアウトしている。

「同著や高橋さんのインタビューを読めば分かるのですが、プロレスは大まかな打ち合わせのなかでレスラーそれぞれが振る舞っていき、もしアツくなり過ぎても、レフェリーが元の流れに戻す構造になっています。そこから生まれるハプニングも醍醐味。1981年、アンドレ・ザ・ジャイアントのラリアットで高橋さんが病院直行になりましたが、それもラリアットは事前に決まっていて、ただアンドレの身体能力が高すぎ、胸だけのはずが喉に入ってしまっただけだそうです。こう見てもプロレスは、構造的にリアリティーショーと酷似しています」

 プロレスファンはカミングアウトを受けても同様にプロレスを楽しんでいる。逆に「演技かどうか」の胡散臭さが払拭。フィクション、アドリブ、ハプニング、この三要素で困惑しながらも目の前で繰り広げられるショーへの興味はふくらみ、コンテンツとして発展していった。「フィクション、アドリブ、ハプニングの三要素での楽しみ方だってあるし、カミングアウトしてもなお楽しめることは、皮肉にも、木村さんの本職であったプロレスが証明している」と衣輪氏。

 ヒールとして過酷なプロレス界で生き抜いてきた木村さんが、死を選んだ。これは、リアリティーショーの世界がプロレスよりも、ショーとしてさらに残酷であるという証明に他ならない。

 SNSで個人攻撃をするのが当たり前になってしまった現代。リアリティーショーという曖昧な言葉でのくくり方が、視聴者からの攻撃のとっかかりを作った可能性も否めない。もうリアリティーショーは、今まで通りの“曖昧”に逃げていてはダメではないだろうか。作り手がプロレスを習って、同コンテンツ用にアレンジしながら発信することで、観る人の認識を正す必要もあるのではないだろうか。命より大切なものなんて、ないのだから。

(文/西島亨)

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