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平成アニメ史、生存術だった『製作委員会』の功罪 「このままでは中国と韓国にパワー負けする」

  • 「スタジオぴえろ」を創業したアニメ界のレジェンド・布川ゆうじ氏

    「スタジオぴえろ」を創業したアニメ界のレジェンド・布川ゆうじ氏

 本日30日、平成が終わる。この激動の31年間を振り返ったとき、日本のポップカルチャーをけん引する「アニメ史」においてもエポックな出来事が数多くあった。なかでも、低迷した平成初期のアニメ業界を救った「製作委員会方式」の誕生は大きな転換期であろう。そこで、「虫プロ」や「タツノコプロダクション」などでアニメーター・演出家として数多くの作品を手がけ、アニメ制作会社「スタジオぴえろ」を創業したアニメ界のレジェンド・布川ゆうじ氏にインタビューを実施。平成アニメ史と“地続き”である昭和の時代を駆け抜けた手塚治虫、高畑勲、宮崎駿、富野由悠季らアニメクリエイターたちの苦闘。そして、令和においてアニメ業界が変わるべき点について聞いた。

アニメ黎明期、漫画家的な発想から“日本のアニメーション”の形は生まれた

布川ゆうじ僕は「スタジオぴえろ」(アニメ製作会社、現「ぴえろ」)を起業する前に6年間「タツノコプロ」にお世話になりましたが、それまでは「虫プロ」(現「虫プロダクション」)にいました。テレビアニメーションは「東映動画」(現・「東映アニメーション」)さんから始まり、そこから手塚(治虫)さんが虫プロを創立された(1961年)。当時、手塚さんは漫画家からアニメプロダクションを起こしたわけですが、あの時代はちょっとしたブームだったんですよ。

――漫画家がアニメーション製作に携わるブームがあったわけですね。

布川ゆうじあのトキワ荘の面々も「スタジオ・ゼロ」(鈴木伸一、石森章太郎(※当時)、つのだじろう、角田喜代一、藤子不二雄、赤塚不二夫らが参加)というプロダクションを立ち上げました(1963年)。「竜の子プロダクション」(現「タツノコプロ」)の創立者の吉田竜夫さんも売れっ子漫画家でしたし、弟さんの九里一平さん(タツノコプロ第3代社長)も漫画家でした。日本のアニメは、昔からマンガ・コミックと非常に密接な関係で、連動して発展していったんです。

――では、スター漫画家に憧れてアニメーターを目指す人も多かったのでは?

布川ゆうじ手塚さんに憧れて大勢の人が「虫プロ」に入ったように、「タツノコプロ」には吉田竜夫さんに憧れていろんな人たちが入っていったんですね。そういう漫画家の先生方って、アニメのプロダクションをやりながら連載も続けていましたからね(苦笑)。

――手塚さんが漫画連載の締切に追われながら、こっそりアニメの仕事をやっていた、なんていうエピソードにも事欠きません。

布川ゆうじそういう面で、かなり過酷なことやっていたと思いますよね。「スタジオ・ゼロ」の方たちは、一人ひとりが作家として名を馳せた人たちですから、さすがに漫画を連載しながらアニメまで手が回らなくなって解散しましたが。

――手塚さんが新興のアニメプロダクションをけん引されていたわけですね。

布川ゆうじ僕が「タツノコプロ」に入ったとき、会社内で“虫プロコンプレックス”を強く感じました。「虫プロに負けたくない、東映に負けたくない」っていう、プロダクション間のライバル意識ですね。それでいて、僕も含めてプロダクション間を移動する人たちも多かった。だから、ライバル意識はあるんだけれど、「虫プロにいた」っていうとそれなりにリスペクトというか、評価を受けていました。やはり、キャリアとして「虫プロで何年、東映で何年やってた」っていう点は大きかったですね。

――「虫プロ」と「東映」には人材が集まっていたと。

布川ゆうじ「虫プロ」にも素晴らしい人が大勢いましたね。アニメの黎明期において時代を動かしたのは虫プロ出身者が多かったと思います。それはやはり、“手塚先生のプロダクションの一門になりたい”って意識もあるんじゃないかな。

――「東映」にいた宮崎駿さんは、漫画家としての手塚さんをリスペクトしつつも、アニメーション作家としての手塚さんに対しては、厳しいコメントをされています。

布川ゆうじ高畑(勲)さんや宮崎さんは、アニメーションとは、いわゆる劇場映画でフルアニメーション(1秒間に24コマ)だという信念を持っていました。一方で手塚さんが「虫プロ」を作ったときは、3コマアニメーションでありながら、そこにきっちり設定とストーリーをつけて毎週放送していくということをやった。それって漫画家的な発想ですよね。そういう即時性、自由性、有効性みたいなものを伝えたことで、“日本のアニメーション”の形は生まれたんじゃないかなと思っています

高畑・宮崎・富野が関わった『世界名作劇場』はTVアニメのクオリティを変えた

――高畑作品や宮崎作品は当時から話題になっていたのでしょうか。

布川ゆうじ狭い業界ですからね。東映には森康二さん、大塚康生さん、宮崎駿さん(3人ともアニメーター)がいて、「どこどこに天才がいるぞ」みたいな噂は聞こえてきました。そういう人たちが関わった作品を見ると「すごい人だな」と思って、みんなリスペクトしていたわけですよ。

――先ほど、アニメ業界ではプロダクションを転々とする方も多いというお話がありましたが、富野由悠季さん(機動戦士ガンダムの原作者、当時:?富野喜幸)もさまざまな場所で仕事をされていたようですね。

布川ゆうじ富野さんはとにかくいろいろな作品に関わっていましたね。もうその頃からスーパースターでしたよ。僕も「タツノコプロ」時代に、『新造人間キャシャーン』の演出を富野さんと一緒にやった経験があります。富野さんはその時、3〜4本のプロダクションを掛け持ちしてやってたんじゃないかな。彼は絵コンテを描くのが速いんですよ、めちゃくちゃ。

――富野さんには“コンテ1000本切り”という異名があります。

布川ゆうじ僕はそういう面で富野さんに憧れていました。「富野さんよりコンテを速く描きたい」みたいな。僕もわりと速く描くタイプだったんですけど、富野さんには負けますよね(苦笑)。

――昭和、平成のアニメ史を振り返る上で、「スタジオジブリ」の高畑さんと宮崎さん、そして『機動戦士ガンダム』の富野さんは外せない存在かと思います。

布川ゆうじ高畑さんと宮崎さんは基本的に劇場アニメーションしか制作しない。でも一時期、劇場アニメーションだけではやっていけない時期があって、『アルプスの少女ハイジ』(1974年)や『世界名作劇場』(1975年〜)の作品に関わった時期もありました。僕は日本のテレビアニメクオリティを変えた時代じゃないかって思っているんですよね。

――高畑さんと宮崎さんが携わったTVアニメが日本のアニメーションを変えたということでしょうか。

布川ゆうじ『ハイジ』のように年間52本の作品を作りながら、ストーリーをきっちりつけるということをやった。当時の子どもたちは、毎週毎週日曜日の7時半にテレビにしがみついてたわけです。“日本アニメーションの良心”というか、『世界名作劇場』の作品性というものを世に広げたっていうとこでは功績は大きいんじゃないでしょうか。

――『ハイジ』や『世界名作劇場』では、高畑さん、宮崎さん、富野さんが一緒に仕事をされています。

布川ゆうじ意外と知られていないエピソードだけど、ハイジの絵コンテの多くを富野さんが描いているんですよ。(『アルプスの少女ハイジ』(全52話/18本)、『母をたずねて三千里』(全52話/22本)、『赤毛のアン』(全50話/5本※『機動戦士ガンダム』の放送のため中盤から不参加)。

――以前、富野さんを取材した際に「対象への理解が正確でなければならない、ということを追求してきた監督が高畑勲です」。そして、「僕にとってもパクさん(高畑さん)は『師匠』だった」と語っていました。

布川ゆうじ高畑さん自身はそんなに絵を描く人ではないんです。それで、絵の部分は宮崎さんが担当してコンビ組んでいたわけです。富野さんもどちらかと言うとそうですよね。富野さんはもともと絵描きではないですが、『ガンダム』は安彦良和さんとのコンビで成功しています。お互いに“共鳴”するとこあったんじゃないでしょうか。

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