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オリコンニュース
本に恩返しがしたい、ファッション誌「bis」編集長・中郡暖菜氏
25歳の時に、母親が病気になってしまったんです。私は人としての能力が高いわけではないし、むしろ低い。何もできないけど、唯一私にできることは『本を作ること』。「自分が作った本を母親に見せたい」それが大きなきっかけでした。すぐに「本を作りたいです」と『小悪魔ageha』の編集長に相談したら、すごく応援してくれました。自分で企画書を作って、モデル事務所にもOK頂いて、話もどんどん進んでいった。でも、最終的に色んなタイミングが合わず、実現できませんでした。でも私の中では「これが最後」という気持ちで進めていたので諦めきれず、「新しい雑誌は作れない」と決まったタイミングで会社を辞めたんです。
――退社されて、そのまま企画書を他社に持って行ったのですか?
そうですね。最初に企画書を持って行ったのが、徳間書店でした。当時、徳間書店では女性誌の扱いがなく、「大人の女性向け雑誌」もなくなるというタイミングだったので、ありがたいことにそのまま実現に至りました。12月にインフォレスト社を辞めて、3カ月後に出版が決まった。それから制作を始めて、9月に発売されました。
――出版が決まってから半年という早さ?
そうですね。とにかく早く「母に渡したい」と思っていたので、急いでいました。1号目、2号目は、特にそれが強かったですね。出来た本を渡したとき、本当に喜んでくれましたし、「作って良かった」と心から思いました。その後、母は手術が成功して、今も元気に生活しています。
――徳間書店の歴史では、史上最年少の編集長。かなり注目を集めましたね?
最初は単発のMOOK本からスタートしたので、そんなに珍しい事ではなかったと思います。ただ、どんどん部数も伸びていき、定期化して、1年目で発行部数が23万部を超えた。結果が出たので「26歳の編集長」という形で注目を集めたんだと思います。当時は、大きくなっていく雑誌のスピードに会社や編集部が追いつけない状況でした。自分の経験値の少なさから、マネジメント部分でも苦労しましたね。
――1年目で発行部数23万部。結果につながった要因は何だと思いますか?
他の女性誌と同じことをしてもダメだと思ったので、全く違った「独自の誌面作り」「独自のファッション」を打ち出して、そこで勝負をしていきました。「占い」や「モテ企画」、「スナップ」も「着まわし」もやらない。色んなことを「やらない」と決めた。それに、「世界観作り」も大切にしていました。創刊号の巻頭イメージは大好きな絵本「あおい目のこねこ」。それをファッションに落とし込み、イメージビジュアルを強めに押し出していきました。おそらく、他の雑誌の巻頭ではそういった企画はやらないですし、不思議がられていたと思います。でも私はそこで勝負をする。そう決めていました。他には、アイドルをモデルとしてどんどん起用していきました。今では多くなっていますが、当時はとても珍しかったですね。誌面のバランスで意識していたのは「ギャル」と「アイドル」と「ハーフ」の3つを同じバランスで誌面の中に入れ込むこと。その3つは、当時の女の子がなりたかったもので、絶対に必要な要素だと思いました。もう一つ、これもすごく大切なんですが「ストーリー性のある企画」をやる事。今まで私が作ってきた企画の中で、特に反響が大きかったものです。とても細かい事なんですが、そういった一つ一つが紙面に凝縮されて、読者の方に届いていたんだと思います。私自身は毎号、「最後」だという気持ちでやっていました。最終的に4年間編集長を務めたのですが、「自分が作りたいと思ったものは作れた」と感じましたし、「やりきった」という想いはありました。
――4年間、「LARME」の編集長をされて退職。1年後に、『bis』(光文社)を新創刊し編集長になられた。
編集長を辞めてから、ドイツのベルリンに行ったんですね。目的もなく淡々と過ごしていたんですが、その場所で色々なことを感じました。ベルリンは古いものと新しいものが融合している街。ドイツの東西のなごりがまだありますし、先進的な部分がありつつも、戦争の色が強く残っている部分もあります。日本は、街も綺麗で雰囲気も良いですが、すごく透過されているというか、どんどん新しいものを取り入れていくという流れが強くて、古いものや失われたものを受け入れようとする流れが少ないような気がします。ベルリンは古いものや歴史を新しいものと同じように大切にしていて、過去のものと新しいものが融合されている街でした。ベルリンに行った事で、「編集者」として新しい事に挑戦したいという気持ちが自然と沸いてきました。最先端もいいけど「古い」ものと「新しい」ものが融合された形を『本』という世界で作りたい。そう思い、帰国後、色々とお話を頂いた中から、もともと大好きだった雑誌『bis』の復刊という形で、編集長をやらせて頂くことになりました。
――『LARME』に続いて、『bis』もミレニアム世代から多くの支持を得ていますね。
私が編集長をやっている雑誌は「18歳から25歳くらい」までの女の子がターゲットで、私自身の考えや興味、好きな洋服も、その世代と同じなんです。今でもそれは変わらなくて、だからこそ読者に寄り添えて、モデルの子とも色々話せるんだと思います。その世代の読者が好きなもの、興味や関心に私自身が共感できる。上の世代の方が売ろうと思って考えたものが、実は違っていたり押し付けになったりする場合があるかもしれませんが、私の場合はそれがほとんどありません。それが、「部数」や「話題」に繋がっているのかもしれませんね。
――インターネットが普及し、雑誌の作り方は変わってきましたか?
そうですね。編集の仕方もすごく変わってきました。昔は、インターネットの情報に対して、出版社は「ライバル意識」を持っていましたし、「競合」という認識だったと思います。でも今は、お互いの良い面を出して、相乗効果を生み出している。雑誌『bis』も、仮想ライブ空間『SHOWROOM』とコラボしてオーディションを実施したり、ライブコマースに参入しています。ネットを通じて『bis』を知った子が、雑誌を買ってくれる。そういった相乗効果がどんどん増えています。私自身も、ネットをメインにした「出版ビジネス」にこそ今後は挑戦していきたいですし、「ネットメディア」だから出来る事と「出版社」が出来る事、それを掛け合わせて「多方面に展開」していくことで、「その先の未来」があると思っています。
――中郡さんにとって、今の活力、モチベーションはなんですか?
私はやっぱり「本」が大好きで、毎日「本」を読みながら寝ていますし、むしろ「本」を読みながらじゃないと眠れないんです。とにかく、新しい本が生まれて欲しいですし、この世にたくさん本がないと困る。実は私、あまり学校に行けてないタイプの人間だったんです。高校も大学も音楽学校で、普通の学生とは少し違った環境でした。それでもたくさん本を読んでいたので、いろんな知識や情報を得ることが出来て、今もこうして色々な人と話をすることができています。だから私は、「本に恩がある」し、「本に救われた」。今、出版不況といわれているので、「編集者」という仕事に魅力を感じてもらえなくなってきています。だから「編集者」という仕事を多くの人に知ってもらって「編集者になりたい」「自分の本を作ってみたい」そうやって興味を持ってくれる人が1人でも出て来てくれるのが願いです。Instagramもある種、編集だと思うんです。自分の世界観を統一して出して、写真や文章を編集していく。女の子はすごく得意な分野だと思うし、編集というものに対して「やりがい」や「楽しさ」を感じてくれる人は多いと思います。「出版社に入って本を作る」という形ではなくても、同人誌を作ったり、デジタルメディアを利用したり、もっとライトな形もあると思います。「編集者」は私にとって最高におすすめの職業なので、たくさんの女の子に興味を持ってもらいたい。こうやって私がメディアに出ることが、何かのきっかけになってくれれば嬉しいです。それが私にとって、『本への恩返し』なのかもしれません。
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中郡暖菜氏(C)MusicVoice
女性ファッション誌の編集長として、インターネットの特性を生かしながら「多方面に展開」している中郡氏の戦略は、間違いなく「未来の出版ビジネス」の形を示している。ただ「新しい」ことをやるのではなく「古い」ものと融合しながら、『新しい魅力』を発信していく。「本に恩返ししたい」そう強く語る彼女の存在がある限り、これからの「女性誌」の未来はきっと明るい。多くの人にとって、『編集者』という職業が「憧れ」の存在になっていくのも、そう遠くない未来のはずだ。