『天気の子』で感じる視点の進化 『君の名は。』から「脱皮」した新海誠監督
過去作品のいずれでもない最前線に躍り出た『天気の子』
『君の名は。』でゲットしたオーソドキシーを、より純化させる方法論もあったかもしれない。あるいは、初期作品に通ずるエモーションを、現在の彼の技量で立体化することだって充分可能だったはずだ。だが、新海は『天気の子』で、そのいずれでもない最前線に、飛び出した。まずは、その勇気を称賛したい。
島から家出して東京にやって来た男子高校生が、小さな編集プロダクションに転がり込む。それと同時に、ファーストフード店で運命的な出逢いを果たした少女を、ある事態から「救出」したことから、恋が始まる。なんと、彼女は「100パーセントの晴れ女」である女の子だった。彼女の能力で、ささやかなビジネスをスタートさせるふたりの行方を、映画は追いかけていく。
ドラマを機動させるキーアイテムも、そのことによって追われることになる逃亡劇も、少女の「秘密」も、すべてベタである。私たちがよく知っている物語の定型がある。つまり、この点に関しては『君の名は。』で到達したドラマツルギーの延長線上にある。
だが、ベタな語りの片隅に「現代」に向き合おうとする確固たる意志がある。そこが、どこか郷愁の色あいの濃かったこれまでの新海アニメとは趣を異にする。その本気が、とりわけ前半には具体的な描写として、ぎっしり詰まっている。
抽象ではなく、具象絵画として「清貧」をダイレクトに描き出した
家出した少年が、ネットカフェで浴びるシャワーのささやかな安堵。少女がスナッキーなインスタント食品に手を加えて供する、心づくしの料理のぬくもり。そして、逃走の果て、ようやく駆け込むラブホテルの、まるでシェルターのような部屋のありよう。
「東京」という記号(本作では、新宿・歌舞伎町が大きな意味での舞台として選ばれている)を剥奪してしまえば、日本のどこにでもあるはずの日常に隣接した時間・空間が、丹念な物語の積み重ねによって、かけがえのないものとして輝く。
これまでの新海アニメが、美しい瞬間を、最大限美しく切り取り、ブローアップしていたとすれば、ここでは、当たり前に存在していたものから光を生み出す「錬金術」が駆使されている。
新海誠は「清貧」を描いてきた作家だと、わたしは考える。その「清貧」は、価値観であり、モチーフでもあるが、それゆえに美化され、抽象的に昇華され、それが新海誠ワールドの本質たりえていた。
これまでは、人と人とのあいだに派生する「清貧」の精神を結晶化してきたように思うが、今回は、抽象ではなく、あくまでも具象絵画としての「清貧」をストレートに、ダイレクトに描き出した。いま、彼はそれを可能にする「筆力」を手にしているからだろう。
たとえば、大量消費されるはずのハンバーガー1個が、永遠に記憶に残る。その個的な魂に、『天気の子』の「清貧」は宿っている。
『君の名は。』とは対称的に観客に委ねられた解釈
おそらく、多くを語らないこの手法には賛否あるだろう。なぜなら、これは単純なベタではないからだ。だが、ここには「清貧」を「清貧」のままで見つめ抜く、しぶとくもしなやかなまなざしがある。『君の名は。』での達成が、これほどまでの視点の進化をもたらした。
そして、この「清貧」のアングルからラストを捉えるなら、これまでになかったほど、愚直な余韻がやってくる。
つまり、一周回ってのベタが、ここにはある。
「家出」とは、映画作家、新海誠自身の宣言=メッセージでもあるのではないか。ノスタルジックに転びそうな物語なのに、ノスタルジーの匂いがほとんどない。「家」を出て、「どこか」を目指す。見えない目的地に向かう情動こそが、『天気の子』最大の魅力である。振り返らない情動。新海誠は、ついに「家出」した。
『君の名は。』で「脱皮」した新海誠は、『天気の子』でいよいよ「成虫」となり、いままさに飛び立とうとしているかに思える。彼の羽が、どの方角に向けて、羽ばたくのかはまだわからない。だからこそ、期待も高まる。「家出少年」の真の冒険は、これからだ。
(文/相田冬二)