愛媛県の南部、南予地方の中心都市として栄えてきた宇和島市。そのランドマークとして現在でも親しまれている宇和島城(うわじまじょう)は、築城の名人として名高い藤堂高虎(とうどうたかとら)が整備したお城。
全国に12しかない、江戸時代以前に建設された天守が残る貴重な城郭になっているので、ぜひみなさんも足を運んでみてください!
藤堂高虎が整備した名城
宇和島城は、標高約80メートルの丘陵を利用して築かれたお城。山頂の本丸を中心に、二ノ丸や三ノ丸などの曲輪(くるわ)を周囲に配置した構造となっています。
宇和島城が近世の城郭として整備されたのは、築城家として名高い藤堂高虎が当地に赴任した、慶長元年(1596年)から慶長6年(1601年)にかけてのことです。
高虎は、生涯に浅井家、豊臣家、徳川家と何度も主君を変えたことで、良いイメージを持たれないことが多いですが、一方で「築城の名人」として、数々の名城の建設に携わった人物でもあるんです。
高虎が転封となると、元和元年(1615年)に仙台藩主、伊達政宗の長男にあたる伊達秀宗(だてひでむね)が入城します。
伊達家は宇和島城の改修工事に着手し、石垣や天守、矢倉などの修繕を行いました。その地道な努力の甲斐があり、江戸時代を通して「伊達十万石の城下町」の中心として存在し続けました。
アイデア満載のお城
宇和島城の最大の特徴は、五角形の外郭と海水を引き込んだ水堀。藤堂高虎によって、城の設計図である縄張(なわばり)が考案されたため、アイデア満載で合理的な造りとなっています。
現在は埋め立てられていますが、かつての宇和島城は、西側半分が海に面しており、東側には海水を引き入れた水堀が存在していました。
海が近いことにより、水利の便が向上し、城下町の発展性も格段に上がります。また、いざという時に船で脱出することもでき、戦闘時にも効果を発揮したと考えられています。
宇和島城を上から見ると、不等辺の五角形という独特な形をしていることが分かります。
五角形にすることにより、通常の城に比べて死角が多く、攻撃や防御、さらに物資の搬入などにも、有効に活用することができるんです。
また、敵は四角形だと思って攻めてくるので、攻撃のカンを鈍らせるという狙いもあったようです。実際に、宇和島城を調査していた徳川幕府の隠密は、四角形と見誤って報告していたという記録が残っています。
天守の美しさは必見
現在見ることができる天守は、寛文2年(1662年)から寛文11年(1671年)に、2代目藩主、伊達宗利(だてむねとし)によって行われた大規模な改修の際に、再建されたもの。
その形状は、3層3階の層塔型(そうとうがた)で、規模こそ大きくありませんが、白壁の美しさがポイントとなっています。五重の塔のように、同じデザインが規則的に積み上げられた形を層塔型と呼び、スマートですっきりした印象が特徴です。
外観や内装などの細かいデザインも重視されていると言われる宇和島城。
例えば、天守の正面についている三角形の破風(はふ)と呼ばれる部分は、玄関部分と最上層に曲線が特徴的な唐破風(からはふ)、そして玄関の上と2層目には、シャープな形の千鳥破風(ちどりはふ)が備えられています。
それぞれ雰囲気の異なる破風を組み合わせることで、独特な美しさを生んでいます。
また、内部も広々としていて、軍事施設というより住まいのような雰囲気を持ち合わせています。一般的に天守は、居住の場ではないので板間のことが多いのですが、宇和島城では1階から3階まで畳が敷けるような構造になっています。
一方、他のお城でよく見られるような「石落とし」や矢を射たり鉄砲を打ったりする「狭間(さま)」は存在しません。
天守が作られた徳川政権下の安定した時代を反映させるような瀟洒な造りになっています。
宇和島城の基本情報
住所:愛媛県宇和島市丸之内1-127
営業時間(天守):9時〜17時(3月〜10月)9時〜16時(11月〜2月)
料金(天守):大人200円、中学生以下無料
2020年4月現在の情報です。最新の情報は公式サイトなどでご確認ください。
■関連MEMO
宇和島市観光物産協会 宇和島城ページ(外部リンク)
http://www.uwajima.org/spot/index7.html
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島塚 渓