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年末音楽番組を観て考える“生歌”と“エア” テレビにおける歌の表現方法の歴史

1年の様々な事象を振り返る年末のテレビ番組。歌もまたそうした世の中の流れとともに振り返られるカルチャーであることから、通常放送とは異なり、多くの歌番組が企画され、オンエアとなる。こうした年末に放送される歌番組を観ていると改めて気づくことだが、そこには「生歌」とリップシンク、いわゆる「口パク」が相半ばして存在する。視聴者は、生歌を聴いてがっかりすることもあれば、口パクで処理されていてショックを受けるケースもあるだろう。それらがいわゆる「口パク是非論争」へと結びついているのだが、ここではそうした是非を検討するのではなく、どうしてこのふたつの表現方法が存在するのか、テレビにおける歌の表現の歴史に目を向けてみたいと思う。

歌手は“歌”の表現者であり演者でもある

 日本人は「言霊(ことだま)」を大切にする民族である。そのため「歌はこころで歌うもの」という考え方が長らく歌謡シーンを席巻してきた(もちろん、今もこのスタンスで歌を歌っている人は少なくない)。だから、歌は「生」が基本だった。レコーディング音源をバックに流してそれに合わせて口を動かすなどというのは「邪道」でしかなかった。

 一方、海外では音楽を「ショービジネス」「エンタテインメント」「アート」と捉えるように、その「魅せ方」に様々な工夫が施されてきた。日本よりも早くからショーアップされた歌番組が流され、ミュージックビデオ(MV)文化が展開された。「魅せる音楽」において主役はアーティストであり、そこに「生歌」は必ずしも必要な条件ではなかったと言える。

 それに対して、日本の「歌謡界」では「歌」が主役であり、歌手はその表現者もしくは演者であり、照明やセットはその世界観を具現化する「効果」にすぎなかった。70年代から80年代の音楽シーン、いわば「昭和の邦楽」の象徴でもあった『ザ・ベストテン』(TBS系)や『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ系)においても、歌唱シーンの基本は「生」だった。

 だが、それと並行して、「洋楽」が日本の音楽界に「エンタテインメント性」とともに押し寄せてきたのもまた事実。いつしかMVがプロモーションの主役と化し、歌番組に海外のアーティストが出演するのが決して「レア」なケースではなくなった。彼らは当然のように、番組のなかで「口パク」を効果的に活用し、出演シーンを「エンタテインメント」へと昇華させた。

育まれたリアルとエアが共存する土壌

 「こころ」の歌から「魅せる」歌へ――。時代とともに音楽の表現は変わっていった。とはいえ、日本には「歌」を味わう文化もしっかりと根づいている。こうして、「リアル(生)」と「エア(口パク)」が共存する土壌が育まれていった。

 30年前、40年前に比べると音楽を取り巻く環境は劇的なほどの変化を遂げた。「ただ歌を伝えればいい」から、「生活を彩るために不可欠な」要素にもなったり、「つらいときに寄り添ってくれる」存在にもなったり、「一緒に体を動かしたくなる」教材にもなったりするようになった。メロディの流れも複雑に展開し、かつて「3分間のドラマ」と称された世界観は、5分を超えて人々を感動させる「一大巨編」へとスケールアップした。

 年末の音楽祭などで見られるアーティスト同士によるスペシャルなコラボレーションや、日ごろテレビではあまり観る機会のないバンドのパフォーマンスなどでは、そのライブ感を増幅するために「リアル」が求められることが多い。一方、CGやプロジェクションマッピングなどのハイテクを駆使し、そこにアーティストが「同化」するステージを見せ場にする番組では、「エア」がその効力をいかんなく発揮する。

 アーティストが「聴かせたい(共感させたい)」のか「魅せたい(楽しませたい)」のか、受け手が「聴きたい(共感したい)」のか「魅了されたい(楽しみたい)」のかによって、求めるものは自ずと異なってくる。計算のうえで緻密に構築された一級のアート――そこにエンタテインメントがあるのならば、生でしか味わえないダイナミズムやエモーションには「プレミアム」感が流れている。

 「リアル」も「エア」も音楽を作り上げ、伝えていくうえで欠かせない手法であることに疑いはない。「リアル」には「リアル」にしか打ち出せない重厚感があり、「エア」には「エア」だからこそ魅せることのできる表現のバリエーションが存在する。「どちらがいい」のではなく、「どちらがそのときのパフォーマンスに合っているのか」「今、どちらを自分は欲しているのか」なのだ。
(文:田井裕規)

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