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難波章浩「アイデアの卵を温め続ける」

国内における90年代メロディック・パンク、いわゆる“メロコア”ブームの火付け役として日本中の若者とストリートシーンを熱狂の渦に巻き込んだ『Hi-STANDARD』のフロントマン、難波章浩。現在のロックシーンはハイスタが礎を築いたといっても過言ではないくらい、音楽業界に数々の新しい価値を生み出してきた。それらの「偉業」をいかに生み出してきたのか。難波章浩という男の矜持と生き様に迫った。

『Hi-STANDARD』は、難波(Vo.Ba)、横山健(Gt)、恒岡章(Dr)で1991年に結成された3ピースバンド。今や定着したカルチャーである「野外音楽フェス」をいち早く自らが主催となり開催した『AIR JAM』、英語歌詞による楽曲、海外のビッグアーティストとの交流、海外でのライブ、アーティスト自らが経営する音楽レーベルの立ち上げ、そしてそのインディーズレーベルからパンクロックジャンルで異例のミリオンヒット…。音楽業界の常識を打ち破るさまざまな試みで多くの“伝説”を作ったバンドだ。2000年に活動を“休止”したが、2011年、東日本大震災で傷ついた日本を元気づけるため、『AIR JAM』の開催と共に『Hi-STANDARD』は活動を復活する。
  • Hi-STANDARDの3人

    Hi-STANDARDの3人

  • ミリオンヒットアルバム『MAKING THE ROAD』(C)PIZZA OF DEATH RECORDS

    ミリオンヒットアルバム『MAKING THE ROAD』(C)PIZZA OF DEATH RECORDS

これら数々のアイデアがいかにして生まれ、難波はいかに実行してきたー「始めて」いったのか。難波章浩のこれまでの歩みと、今の活動について改めて聞いてみた。

「2000年の活動休止まで、ずっと“挫折”が無かった人生だったんだよね。高校までサッカーではトレセン(強化選手)だった。でも、当時はプロなんてなくて、サッカーでは飯食えないなって思ってた。男として、生きていくにはどうしたらいいか。これで飯食っていきたい、って思えるのがバンドだった。それからはライブハウスに出入りしてノウハウ覚えたよ。実は高校までは新潟の明訓高校っていう進学校に通っていてね。バンドやりに東京行くって言ったら母親に泣いて反対されたんで、大学に行くことにしたんだ。大学では全然勉強しなかったけれど、経営学と心理学だけは真面目に学んだよ。自営業の父の稼業を継がないといけない可能性があったし、バンドがうまくいなかったら戻らないといけないかもしれないから。でも、ラッキーなことにハイスタで飯を食えるようになっていった」

「今は『NAMBA69』というバンドでもメッセージを発信してる。あとは、あまり聞かれたことないから言わなかったけれど、実は会社を経営してる。ハイスタのマネジメントをする『HS』と僕個人やNAMBA69のマネジメントをする『ULTRA BRAIN』。その代表をしているよ」。

現在は地元の新潟に住み、全国・世界を相手に音楽を発信している。地元新潟ではFM局でラジオパーソナリティーとしても活動し、テレビに出演する機会もあったという。さまざまなチャンネルで活躍する難波。そのエネルギーの源は何だろうか。

やりたいことを実現するためのアイデアが、新しいものになった

「エネルギーの源は、やりたい事をしたい、やりたくないことはやりたくない。それだけ。究極の自己中だよね(笑)。僕は音楽を仕事と思っていない。一番好きなことが音楽。仕事だからやらないといけない、って感覚はないね。でも、会社経営は仕事。会社は、やりたいことを実現するための手段のひとつ。自分の理想とする形がないなら作ってしまおうって」

今やバンドのライブでは当たり前の光景であり、バンドの大切な収入源でもある“オリジナルグッズ”の販売を本格的にやり始めたのもハイスタだった。英語による楽曲は純粋にカッコいいと思った海外アーティストの影響。ミリオンヒットは、TV出演やプロモーション活動をせずに、ライブにこだわり“本物のファン”を地道に獲得していった結果だ。『AIR JAM』は『FUJI ROCK FESTIVAL』と同年1997年の同時期に開催され野外音楽フェスの先駆け的存在だった。今やアーティスト主催の音楽フェスは多数開催され、音楽フェスは人気のコンテンツとして確立されている。

初めての挫折、そして「愛」による復活。自らが“いいバイブス”を届けたい

「ハイスタってアイデアが生まれて、このメンツだったら海外と戦えると思ったんだ。そんなことできるわけないって誰もが思う状態だったけれど、漠然とそう思えたんだよ。だんだんと夢がかなっていったんだ。ハイスタを結成した時、夢を見た。一番最初に見た夢――本当に寝ている時に見る夢ね、それが“スタジアムでゴムボールを投げる”っていう夢だったんだ。それが2000年の『AIR JAM』で現実になった。オーディエンスに向かって投げたボールなんだ。それに向かっていって実現したから…きっと終わった。活動を休止した」
「自分たちのやりたいことをがむしゃらにやって、楽しいだけだった。あの時俺はハイスタを続けたかった。活動休止は2、3年の間くらいだろうって思っていたよ。でもいろいろな理由でやれなかった。ハイスタのファンからもディスられるようになってさ。ネットのいじめも僕が一番最初だったんじゃないかな(笑)。いったい僕が何したっていうんだ…って。だから、沖縄に行くしかなかった。この頃はめちゃめちゃ荒れてた。こんなことは自分のやりたいことじゃないんだって思いながら喧嘩ばっかりしちゃって…。結局沖縄に8年もいたよ」。

『Hi-STANDARD』は解散したわけではなかったが、沖縄ではハイスタの難波としてでなく、難波章浩としてのソロ活動や、電子サウンドの『テュンク』など音楽活動に取り組む。前述の会社『ULTRA BRAIN』を作り新しい夢を模索していく。

「僕が良くなっていったのは、コトバはアレだけど…結局は『愛』だよね。仲間、家族、子供、支えてくれる人たち、手を差し伸べてくれる人たち。そして沖縄で家族ができて、考えが180度変わった。自分主体の考えから、まずは家族が一番に変わった。父親になって色々なことをあきらめていく人って多いと思うんだけど、俺は父親になっても大人になっても音楽やってけるんだぞって形を示してやろうと思っている。人生つまらないって言っている人たちに、『ぜんぜんそんなことないよ、楽しめるよ人生』って、こんなやりかたもできるんだってのを見せていきたいんだ。そして…そうこうしているうちに、あの3.11震災が起こるんだよね。さらにもっと、自分主体じゃない活動で…何か音楽で届けられないかってもっと思うようになった。それで、2011年に『AIR JAM』が復活したんだ」。

震災をきっかけに、3人の想い、さまざまなタイミングがクロスし、2011年9月に横浜で『AIR JAM』を開催。『Hi-STANDARD』が11年ぶりに姿を見せて、50分の復活ライブを披露する。スタジアムの外は3万のチケット抽選に漏れたファンたちで埋め尽くされた。多くのファンには、奇跡のような50分間であり、1日だった。翌年は東北エリア、宮城県での『AIR JAM』を実現し、被災地へ直接元気を届けた。2013年、2014年は各メンバーで活動。2015年末に複数のフェスで『Hi-STANDARD』として出演し、話題になったのは記憶に新しい。

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