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米津玄師の歌詞への思い、祖父の死乗り越え「果たして正しかったのかどうか」
10代から50代全世代が支持、「このやり方は間違っていなかった」
米津玄師 僕は基本的に“普遍的なものを作る”ことを軸に、日本人だからこそ、J-POPとして音楽を作りたいと思っています。歌謡曲とか、先人たちが積み上げていったものをひもといていく。例えば、「蛍の光」を聴いたら寂しくなるし、なぜだかわからないけれど懐かしく感じたり、グッときたりする。歴史に根ざしているものを自分の中に取り入れて、構築して、音楽に反映するにはどうしたらいいかと考えながら作業をしているんです。だから、年配の方にも受け入れられていると聞くと、このやり方は間違っていなかったんだ、と少し安心します。
――街を歩いていて、声をかけられることなども増えたのでは?
米津玄師 いや、気づかれることはほぼないですね。というか、人の多いところにあまりいきません(笑)。
――TwitterとYouTubeのフォロワー数も、それぞれ100万人を超えました。
米津玄師 100万人を超えたあたりからどんどんインターネットとの距離ができてきて、“なんかもう、いいかな”と思うようになったんです。もしかしたら気持ちが戻るかもしれないけれど、なんでもシェアする文化についていけなくなっている。これは、僕がシェアされる側になってしまったから思うことかもしれないですけど。
初のドラマ主題歌は「小っ恥ずかしいし、不思議な感じ」
米津玄師 これまでタイアップをやらせていただいたアニメや映画は自分にも馴染みがあったんですけど、ドラマはあまり観てこなかったんです。だから、自分の歌声がドラマから流れてくるなんて小っ恥ずかしいし、不思議な感じ。でも、手前味噌ですが、物語にとても合っていると思います。いいシーンで流してくれているので、ドラマスタッフさんの愛を感じますし、美しい作品と出会えて幸せです。
――曲について、ドラマ側からのリクエストはあったんでしょうか?
米津玄師 プロデューサーさんから、「傷ついた人たちを優しく包み込むような曲」というオーダーをいただきました。ドラマ自体が人の死を扱う内容ですが、僕も音楽を作るうえで死というものを重要視しているので、リンクする部分があって。実際に脚本や映像を観せていただいたらすごく面白かったので、“自分ならこのドラマの音楽を作れる”と確信が持てました。
――米津さんは過去にも、死に抱く感情についてたびたび発言されていますね。
米津玄師 人間は誰しも死んでしまうもの。そこから逆算しないと、力があるものは生まれてこないと僕は思っているんです。これは音楽に限ったことではなくて、例えば平昌五輪でも選手は驚異的な努力の末にメダルを獲得しましたよね。彼らの選手生命は、ものすごく短い。でも、近い将来、選手生命を終えるという“死”があるから、計り知れない情熱を注ぐ。そういった美しい瞬間やものを作るには、死に対する哲学がないと、足腰が立たないものになってしまう気がします。
制作中に祖父を亡くす…「考えざるを得ない部分がありました」
米津玄師 普段、フリーダイビングのように潜って潜って深いところにあるものを拾う作り方をしているんですけど、これは結構時間がかかるんです。この曲を作っていたのは全国ツアー中で、地方公演から戻って数日深く潜ったら、また公演のために出かけるといったことを繰り返していた時期。ステージに立つ日は無理矢理にでもスイッチを切り替えていたので、ただただ疲れ果てていきました。そんなスケジュールの中、ギターで1コーラスを作り始めた頃に、僕の祖父が亡くなったんです。人の死を扱う曲を作っている時に肉親が亡くなる…これはなかなか思うところがありました。僕自身、死を見据えているつもりでいたけれど、果たして正しかったのかどうか。かなり悩んで、完成までには今まで以上に時間がかかりましたね。
――ツアーと制作の同時進行だけでも大変なのに、集中の糸が切れてしまうことは?
米津玄師 乱暴な言い方になってしまいますが、正直なところ、それどころではなかったです。でも、あやふやなものとして死を扱っていたところに、実体としての死が飛び込んできたので、考えざるを得ない部分がありました。完成したものを客観的に聴くと、ただ“あなたが死んで悲しいです”としか言ってない気がするし、プロデューサーさんからのオーダーに応えられたかはわからないけど…。最終的にはドラマサイドの方々に喜んでいただけたので、良かったと思っています。