「およげ!たいやきくん」は童謡? 誕生100周年を機に再評価の機運高まる
答えは……すべて童謡だと言えるが、そうでないとも言える。
この設問、『童謡の百年』(井出口彰典・著/筑摩書房)にあったもので、それによると童謡とは「子どものうたう歌の全般」であり、同時に「大正期に登場した」ものに限定される場合もある。最近では「大人に向けて作り、子どもも歌える文学的作品」という狙いもあり、童謡とは実に定義の難しい音楽ジャンルなのだ。
始まりは1918年(大正7年)7月1日、児童文学者の鈴木三重吉が「世間の小さな人たちのために、芸術として真価ある純麗な童話と童謡を創作する最初の運動を起こしたい」と書いて、児童文芸誌『赤い鳥』を創刊したことにあるとされる。
童謡誕生100年の主なあゆみ
とはいえ、創刊当初の童謡にはメロディーが伴っておらず、あくまでも言葉のみ。そこには『赤い鳥』の中心を担った詩人・北原白秋の「子供心の自然な発露から、自由に謡ひ出すといふ風なのが本当でせう」という、子どもによる自発的な歌謡が望ましいという理想があったからだ。
ちなみに西条は詩に旋律が付くことを厭わなかったが、白秋は山田耕作以外を受け入れ難かったとか。白秋の気難しさは有名で、そんな白秋の芸術家たる人生を描いた映画『この道』が来年1月に公開予定だ。
当時の唱歌の位置づけは、「外国の歌の旋律を用いることが多く」、「国家形成のために共通アイデンティティを作る教育的ツール」だった(『童謡の百年』より)。たとえば「蛍の光」や「ちょうちょ」といった唱歌にも、今は歌われない国体賛美的な歌詞が存在していたのだ。とはいえ、唱歌がそれだけの存在ではないのは今聴けばわかる。
それでも鈴木三重吉は「子どもが謡ふ唱歌なぞ、実に低級な愚かなものばかり」と断罪し『赤い鳥』を刊行したのだから、彼ら文学者の思いは「お上の押し付けは無用!」というようなものだったのだろう。
その流れが変わったのは1921年(大正10年)。当時5歳だった三笠宮崇人殿下が童謡を作詞したというニュースが新聞に掲載されたのを機に、詩人の野口雨情が「千代田のお城」を作詞、本居長世が作曲し、本居の2人の娘が宮中で歌ったことから、童謡は皇室のお墨付きをいただく。唱歌と童謡が、日本の社会で同列の地位になったのだ。ちなみに、このとき歌った本居の娘のみどりと貴美子は後に人気歌手となって、児童が歌う童謡ブームを生んでいく。
1949年(昭和24年)8月1日からはNHKラジオで『うたのおばさん』がスタート。これまで子どもが歌うものだった童謡を、当時30代の松田トシと安西愛子という2人の女性が歌い、“大人が子どもに聴かせる”童謡のスタイルが確立した。
その後、童謡は歌謡曲ブームに押されて衰退した時期もあったが、1985年に『あの時、この歌〜由紀さおり、安田祥子童謡を歌う』が発売され、翌年にはレコード大賞の企画賞を受賞。大きな童謡ブームを巻き起こす。
そう、海外には子守唄は数多くあれど、童謡のような子ども歌の多様な文化は見当たらない。日本独自の、ユニークな音楽ジャンルなのだ。