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“時をかける”原田知世、高度な清廉性を保つ秘訣とは?

1980年代にはアイドルとして世の中を席巻、今や実力派ミュージシャン・役者として評価される原田知世が“時をかける”洋楽名曲をカバーしたアルバムを発表。デビュー当時と変わらない透明感のある歌声に心が洗われる内容。時代が変化しても清廉さを保ち続ける理由に迫った!

洋楽名曲で、素敵な大人の恋愛を

──このたび14年ぶりとなるカバーアルバム『恋愛小説』が完成しました。
原田 昨年伊藤ゴローさん(ボサノヴァ・デュオのnaomi & goroのギタリストであり、作曲家/音楽プロデューサーとしても活躍している)をプロデューサーに迎えて『noon moon』というオリジナル・アルバムを制作し、ツアーをまわったんですけど、とても良い雰囲気で。このまま終わらせてしまうのはもったいないという気持ちでいたんです。そんなときに、ユニバーサル ミュージックのスタッフの方より洋楽カバーアルバムのお話をいただきまして。カバーも楽しいし、やってみましょうかという話になったのです。だから、1年前にまさかカバー盤を作るなんて、想像もしていませんでした。

──カバーされているのは、ビートルズやエルヴィス・プレスリーなど、時をかけて愛されている名曲ばかりをセレクトされていますね。
原田 レーベルの方に楽曲をご提案いただいたなかから、ゴローさんは1枚の作品として流れのあるもの、私は自分で歌ってみたいと思ったものを選んでいくなかで残った10曲になります。

──これまでとの楽曲制作との違いはありますか?
原田 オリジナル曲に関しては、自分がこういうものを作りたいというイメージのもと制作していくのですが、今回はレーベルの方より脚本をいただき、ゴローさんが監督をして、私は演じるように歌うような。作品の一部として参加できた気分でした。だから、オリジナルではできないエモーショナルな歌い方もしてみたりしましたね。

──なるほど。
原田 また、オリジナル曲でストレートに愛を告白する曲ってないんですね。でも、今回の収録曲は1つひとつが甘くロマンティック。そこは、自分ではないキャラクターを演じてみようと心がけました。

──だからタイトルの『恋愛小説』のように、1曲聴くごとにページがめくれていくような短編集のような仕上がりになっているんですね。
原田 そうですね。10の短編集によって構成された内容と言えます。また、今回洋楽カバーなので、あえて日本語のタイトルにしてみました。

──このアルバムを聴いていると、ゆっくりと恋をしたくなりますね。
原田 きっと現在、恋をされている方でしたら浸ってもらえるはず。また、かつて経験のある人も、そうでない人も、誰かを好きになったり、胸がキュンとする瞬間の素晴らしさを感じてもらえると思います。だから私自身、実はこれまで作った楽曲って何度も聴き返すことってしないんですけど、今回はほんとによく聴いています。

──このアルバムで妄想恋愛できますよね(笑)。
原田 それも楽しいですよね。同世代の友達は、このアルバムを聴いていたらまた恋がしたくなっちゃったと言ってました。

──この作品を通じて、得られたものはありますか?
原田 私は作品を完成させるごとに得られるものがたくさんあって。前作があったから、このカバーアルバムも生まれたと思っているし。次も、この作品をきっかけにつながっていくものだと思っています。いい経験になりましたね。

芸能界の先端と言われる部分と距離を置いて活動できた

──原田さんは、80年代からずっと音楽活動を続けていらっしゃいます。ずっと音楽活動を続けられるのは、1つひとつの出会いを大切にしているからなのでしょうね。
原田 とてもいいタイミングで、素晴らしい方々と出会い、一緒にお仕事をできたこと、それが今につながっているんだと思います。とても幸せなことだなって。自分の財産になっていますね。

──デビュー当時は松任谷由実さん、その後には秋元康さんや(作曲・編曲家の)後藤次利さん、鈴木慶一さん、(スウェーデンの)トーレ・ヨハンソンさんなど、これまでさまざまなアーティストの方と楽曲制作をされていました。
原田 松任谷さんは、デビュー前から家族全員で聴いていたミュージシャンだったので、楽曲提供のお話をいただいた時は、大事件が起こったって言うくらい大騒ぎになりましたね。それから現在に至るまで、年を重ねても素晴らしさを感じる楽曲(『時をかける少女』など)を提供いただいて、感謝しています。

──秋元康さんと後藤次利さんとは、80年代後半にシングル「雨のプラネタリウム」などを発表されました。
原田 (作曲・編曲家の)後藤次利さんはこの曲以外にも一緒に楽曲を制作してくださったんですけど。時代の流れを鋭い感性で描く方ですから、新しいチャレンジをさせていただきました。

──そして90年代に入ると、鈴木慶一さんプロデュースで3枚のアルバムを制作。この頃から、ミュージシャンとしての評価が高くなったような気がします。
原田 鈴木さんと出会えたのは(その後のミュージシャンとしてのキャリアにおいて)大きかったですね。自分自身の個人的な考えを、音楽で表現する方法を教えていただいた気がします。私に音楽の庭があるとするならば、鈴木さんが最初に地を耕してくださった感じですね。だから、今も楽曲が完成するたびにお渡ししたり、ライブにお誘いするなどして交流をし、感想をうかがうのを楽しみにしているんです。

──デビュー当時から、いずれはご自身で音楽を制作されたいというビジョンはあったのでしょうか?
原田 今いる場所を目指して活動をしていたつもりはなくて。デビューした頃には、こんなに長くこのお仕事を続けるなんて想像もできませんでした。

──80年代はアイドル的な人気をみせていた原田さんですが、とても自然な形で独特な透明感のある雰囲気のアーティスト・役者へとイメージチェンジをされた印象が強いです。
原田 私は芸能界の先端と言われる部分から、ちょっと距離を置いて活動ができた気がしていて。そこに心地よい場所を見つけられたというか。(芸能界には)いろいろな役割があるので、私はそこでいいのかなと。音楽に関しては、時代性を少し入れながらも、10年後にも聴いてもらえるようなものを残していきたいと考えています。

大切なことを見失うことさえなければ大丈夫

──現在も日々たくさんのアイドルが登場しています。原田さんのように、独自の世界を構築させて第一線で活躍し続けるために必要なことって何ですか?
原田 10代の頃は、何かを考える余裕がなかったので、周囲にひいてもらったレールの上をひたすら走るしかない状況でした。でも、自分の正直な気持ちだけは流されないようにしていたかもしれないですね。それを忘れさせずにさせてくれた存在が、家族や高校の友人でした。大人や仕事が介入しない時間があったことで、大切なことを見失うことがなかった。きっと現在活躍されていらっしゃる人も、大切にしなくてはいけないことは何かというを見失うことさえなければ、大丈夫だと思います。

──原田さんが我を忘れそうなほど忙しかった時期はいつだったのでしょう?
原田 高校に通いながら活動していた頃ですかね。でも、学校が唯一の大人のいない時間だったので、自分を見失うことがなかった気がします。本当に仕事と関係のない同世代の友人は大切です。今でもお付き合いがあるんですよ。

──なるほど。
原田 また、家族の存在も大きいですね。デビューと一緒に母親と姉も上京してくれたので、仕事が終わると長崎の実家があったという感じでしたので。きっと一人で東京で暮らしていたら、ここまで活動はできなかったと思います。

──周囲の暖かいサポートもあって、デビュー以来魅力的な女性であり続けていらっしゃると思うのですが、他にもずっと変わらない透明感や美しさをキープされている秘密があるような。
原田 日常のなかで、小さなことでもいいので元気になれるものを見つけることですかね。それから、休みがとれたら旅をしたりもします。旅をすることでリフレッシュにもなりますし、心に栄養をもらえるので。

──今後も、心をときめかせるものを探しながら、活動されることを期待しています。
原田 女優のお仕事って、監督さんや脚本家さんなどと共にひとつの作品を完成させるやり方で、音楽は今の自分を表現できる場所。全く異なるものだから、演技のお仕事をしていると音楽をやりたくなって、音楽制作をしていると演じたくなる。だから、ずっと飽きずにいられるんです。これからも出会いを大切に活動を続けたいですね。でも最近は時間の流れがあっという間なので、(一瞬一瞬を)大切にしなくてはと思っています。

(文:松永尚久/撮り下ろし写真:草刈雅之)
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