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『としまえん』設立当初は“娯楽”ではなく“心身鍛錬の場”だった コロナ禍での閉園に語り部「歯がゆいが、最後まで笑顔で」

絶叫マシンブームの火付け役も…バブルで見失った本質

 初めて買い付けに参加したのは、「フライングパイレーツ」(1984年)。『としまえん』の真ん中に堂々そびえ立つ、2隻の大型船がスイングする振り子型アトラクションだ。1回の稼働につき240人が乗船できる、当時としては世界最大級の絶叫マシンだった。
「ドイツの会社に特注で作ってもらいました。かといって世界最大級を狙って、この大きさになったわけじゃないんですよ。当時の来園者は1日2万人ほどでしたが、長時間並んで待たせるのも申し訳ない。『20分以内に乗っていただくには?』と逆算した結果、240人という数字が弾き出されたんです」

 『としまえん』はほかにも、世界初の「流れるプール」(1965年)、日本初の大型ウォータースライダー「ハイドロポリス」(1988年)など数々の「初」の記録を残している。
「ただ、どれも記録を狙ったわけではないんです。流れるプールもまだ泳げないお子さんに『僕にも泳げた!』という気分を味わってもらうために開発されたものでした。お客さんの笑顔を見たい。それが何よりも、遊園地マンの情熱を突き動かすものなんです」
 「フライングパイレーツ」は大いに話題となり、以降、全国の遊園地では競い合うように大型絶叫マシンを導入するようになった。『としまえん』もまたしかり。さらにバブル景気に沸き立つ世相もあって、来園者もうなぎ上り。バブルが崩壊しつつあった1992年には、ピークに達し年間400万人にも及んだという。ところが翌年から来園者は目に見えて減っていった。不景気のあおりもあっただろうが、内田さんは別の原因に思いを巡らせる。
「絶叫マシンには身長制限があり、小さなお子さんは乗れないものがほとんど。自然と10代後半から20代のお客さまが中心になっていきました。ところが若い方というのは最新のマシンに1回乗ればそれで満足して、次の最先端を追い求めていくもの。なかなか二度三度とは遊びに来てくれないんです」

 日本の遊園地で年間フリーパス(1977年)や1日券(1980年)を導入したのも、『としまえん』が初だった。そこには「家に広い庭のない東京の子どもたちに、思い切り遊んでもらいたい」という思いがあったが、バブル期の世相は、その本質を霞ませた。
「2000年代初頭まで、来園者数は下がり続けました。私たちも最先端を追い求めるあまり、ファミリー層を置いてけぼりにしてきたのではないか。そうした反省の元、ここ15年ほど小さなお子さまも楽しめる乗り物を充実させてきました。それと足並みを揃えるように、少しずつお客さまも戻ってきてくれたんです」

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