「DA.YO.NE」ヒットで市民権を得て25年 GAKU-MCに聞く日本語ラップの今

 1990年代序盤から日本でも一気に広がりを見せたヒップホップ・ムーブメント。特に95年は、さまざまなアーティストが代表作と呼べる名盤をリリースし、日本のヒップホップにとってエポックメイキングな年になった。なかでも大きな輝きを放ったのが、EAST END×YURIがリリースした「MAICCA -まいっか-」と、前年夏にリリースしロングヒットを記録した「DA.YO.NE」。この2曲によって“日本語のヒップホップ”が幅広い層のリスナーに認知され、カウンターも含めてその後の発展につながったことは間違いないだろう。あれから四半世紀が過ぎ、日本のヒップホップはどのように成熟し、定着してきたのか。シーンのど真ん中で活躍し、隆盛の立役者の一人、GAKU-MCに聞いた。

「ヒップホップは、ポッカリと開いた胸の穴を埋めてくれた」

 中学生まではサッカー少年だったというGAKU-MCは、高校でレギュラーを取れなくなったことをきっかけに音楽に興味を持ち、ヒップホップと出会う。
GAKU-MCサッカー部を辞めて、それまで仲の良かった友人たちとの関係にヒビが入り、ぽっかりと開いた胸の穴をヒップホップが埋めてくれました。ヒップホップが僕を虜にしてくれて、日々が新鮮に思えるようになったんです。同じようにつまずいた友人を見るたびに、「ラップって楽しいよ。ヒップホップ聞いてみたら」と好きだったアーティストが入ったカセットテープを配ったのが僕のスタートですね。

 アメリカのアーティストの曲を渡すだけでなく、「自分が作ったもののほうが喜んでくれるのでは」と日本語で自作のラップに挑戦したことから、アーティスト活動が始まったというGAKU-MC。90年代前半までのヒップホップシーンに対して彼は、「革命前夜という感じでしたね」と振り返る。
GAKU-MC僕と同じくらいの世代がアメリカのヒップホップに触発されて、自分たちで曲を作り始めていました。“これが正解”と呼べるようなスタイルが確立される前だったので、各自が自分らしさを追求していたと思います。紆余曲折を楽しみながら模索していた楽しい時代だったなと。ヒップホップで、ラッパーとして生計を建てられる、なんてことは全く想像できてなかったけれど、毎日が新鮮で刺激に満ち溢れていた日々でした。

口癖をラップに…狙っていた「歌詞への共感」と「楽しんで元気に」

 GAKU-MCは、90年にEAST ENDを結成し、その2年後にインディーズレーベルからデビュー。スチャダラパー、RHYMESTERなどの登場により、徐々にシーンが盛り上がってきた94年8月に、EAST END×YURIの「DA.YO.NE」はリリースされた。シンガーの市井由理に「ラップを教えて欲しい」と頼まれたことをきっかけに、楽曲制作がスタート。「自分たちの話し言葉。口癖をサビにしてみるのはどうだろう」というアイデアから生まれたという。
 初週売上0.4万枚で「オリコン週間シングルランキング」初登場94位(94年8/29付)だった「DA.YO.NE」は、徐々に順位を上げ、翌95年2/13付から3週連続で最高位の7位をキープ。トータルでTOP100圏内39週、累積101.8万枚の大ヒットを記録し、95年2月に発売された「MAICCA -まいっか-」と共にランキングを席巻した。
GAKU-MCヒットの要因はいろいろとあると思いますが、聴いてくれた人が歌詞に共感し、喜んでくれたことに尽きますね。それは当時の僕らの狙いでもありました。聴いてくれる人が楽しんでくれて元気になる、それがすべてだったので。ラッパーが好んで使うような表現でもなく、それまでのポップニュージックの手法とも違う等身大の自分たちの言葉を使ったアプローチが新鮮で、世の中に受け入れられたのだと思います。

「DA.YO.NE」「MAICCA -まいっか-」のヒットにより、地上波のテレビ番組にも頻繁に出演したEAST END×YURI。ヒップホップ、ラップをお茶の間レベルに浸透させたことは言うまでもなく大きな功績だが一方で、「テレビでパフォーマンスすることをよく思っていなかった連中もいたと思います」という通り、当時のアンダーグランド・シーンからは批判的な声もあったという。
GAKU-MCただ、誰に何を言われても、当時活動を共にしていたFUNKY GRAMMAR UNIT (RHYMESTER、MELLOW YELLOW、KICK THE CAN CREW、RIP SLYMEなどによるヒップホップコミュニティ)のメンバーたちは、僕らのやり方を理解してくれていました。それに支えられたところもありますね。また、大学の同級生だったKGDR(キングギドラ)のKダブシャインには会うたびに、「派手にやっているね」といじられた記憶があります(笑)。

 95年は、EAST END×YURIの活躍はもちろん、スチャダラパーの『5th Wheel 2 the Coach』、RHYMESTERの『EGOTOPIA』、キングギドラがデビューアルバム『空からの力』を発表するなど、日本のヒップホップシーンにおいてエポックメイキングな年となった。
GAKU-MCそれぞれが自分のやり方、方法論を見つけて、本腰を入れて活動し始めた頃だと思います。みんなに先んじて結果を出した僕らも、常にその次の楽曲制作を考えながらの日々でした。僕個人としては、「もっともっと上手くなりたい、誰をも納得させるラップを書きたい」と、そんなことばかりを考えていた時期ですね。

才能豊かな今のアーティストへ「自分たちのやり方でどんどん走ってほしい」

 もともとNYのストリート発の音楽であるヒップポップ。“日本語でラップ”“日本人がラップをする”ことについては、80年代からさまざまなアーティストが試行錯誤を繰り返してきたが、GAKU-MCはリリックの内容、ラップのスタイルなどについてどのような見解を持ち、研鑽を重ねてきたのだろうか?
GAKU-MC大切なのは、自分自身に正直でいること。これがアメリカのヒップホップから僕が学んだことですね。特にNative Tongues【※1】やArrested Development【※2】のSpeech【※3】からは、そのことを受け取った気がしています。「じゃあ、僕の想い、悩みってなんだっけ」という自問自答が僕の楽曲制作の根本にあって、それは今日も続いています。

 その後、KGDR(キングギドラ)からソロに転身したZeebra(ジブラ)、KICK THE CAN CREW、RIP SLYMEなどのブレイクをきっかけに、シーンの充実度はさらに高まった。また最近では、「フリースタイルダンジョン」(2015年〜・テレビ朝日系)などの影響でラップバトルが流行したことも、ヒップホップの浸透につながったと言えるだろう。
GAKU-MCちょうど僕ら(FUNKY GRAMMAR UNIT)がクラブで集まって切磋琢磨している頃(93年あたり)、フリースタイルがその場所で始まった記憶があります。競い合ってテクニックを見せ合う。バトル。これはヒップホップの基本でもありますね。あり方に違いをあまりかんじないけれど、今の連中はとにかくうまいなあ、と思います。

 メジャーシーンでブレイクするヒップホップアーティストはさほど多くないが、KID FRESINO、SKY-HI、SALU、BAD HOP、さなり、Rude-αなど才能豊かなアーティストが次々と登場。この現状について、GAKU-MCは「とにかくうれしく思う。自分たちのやり方でどんどん走ってほしい」と期待を寄せる。
GAKU-MCシーンが向かうべき方向については)てんでばらばらでいいのかなあ、と。それは僕自身も同じで、仮にシーンの向かう先と全く違う方向であっても、とにかく突っ走っていたいし、自分らしく音楽を続けたい。僕の音楽を聴くことで、前を向いて、背中を押される!という人がいる以上はやめてはいけないなあ、と。大好きなギターを弾きながら、もっとラップも上手くなって、自分の一番の居場所であるステージに立ち続けたいと思います。

【※1】Native Tongues(ネイティブ・タン)/ギャング的な要素を排し、気の合うもの同士がグループ、組織の枠を越えて共に楽しむという、80年代後半に誕生したヒップホップ界のニューウェ―ブ。
【※2】Arrested Development(アレステッド・ディベロップメント)/アメリカのヒップホップグループ。92年にアルバム『テネシー(遠い記憶)』でデビュー。翌年のグラミーで2部門を受賞。
【※3】Speech(スピーチ)/Arrested Developmentを率いるラッパー兼ボーカリスト

文/森朋之

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