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「破天荒な親を持ったからこそ」内田也哉子、母・希林さんの意志受け継ぐ“9月1日”への思い
「命がもったいない」希林さんの呟きで知った、子どもたちの現実に愕然
同書の中で也哉子さんは、不登校新聞の編集長、不登校経験者、バースセラピスト、日本文学研究者などと対談。「不登校の子どもにはフリースクールに通うといった道もありますが、実際にそういった場に通っている子は全体の2〜3%だそう。ほかの子どもたちはいったいどこに向かえばいいのか……。不登校経験者とも話したのですが、“この現状に、なぜ大人が声を上げてくれないのか?”という怒りの声も受け取りました」。
様々な角度から話を聞いていくうちに、不登校の子どもたちに救いの場がないことに絶望を覚えると同時に、子どもの多様性を柔軟に受け入れるだけの土壌の必要性を強く感じたという。「置かれている環境に問題が生じても、新たな道を提示できれば、救われる人たちはたくさんいる。日常に起こることに絶対はないですが、周囲の大人が『回り道をしていいんだよ』『怪我をしてしまったら、癒えるまで休んでいいんだよ』と声をかけてあげるだけで、大きく変わることがあると思うんです」。
希林さん独特の子育て論、「子ども扱いされた記憶が一度もない」
そんな也哉子さんでも、小学6年生のとき、日本の公立小学校に半年間通った経験があった。そこでは、これまでの常識が非常識に感じることを経験し、学校に行くことが嫌になったという。だがそのとき、希林さんは「やめてもいいよ」とサラリと言い放った。希林さん流の独特の子育て論だ。
「私は母親から子ども扱いされた記憶が一度もないんです」と苦笑い。「すごく寂しかったこともたくさんあったのですが、小さなときから『あなたはあなただから。自分の好きなものを選ぶ権利もあるし、それを選んだ結果、ついてきたものを学んでほしい』と言われていました。つまり、自由を与えるけれど、そこには責任も伴うということですよね。寂しさの一方で、このことが現在の自分のたくましさにつながったような気がします」。
とは言いつつも、子ども心には、なかなか希林さんの考えを理解するのは難しいことのように感じられる。「母の考えをちゃんと理解できたのは、私にも子どもができて、ある程度コミュニケーションが取れるようになってからですね。子育てをしている際に、自分が育ってきた光景がフラッシュバックして、なるほど母が言っていたことはこういうことなんだ、と理解できることが増えていきました」と、亡くなった今でも、心の中で希林さんと対話する日々が続いているという。
父・裕也さんをめぐる葛藤、複雑な思いは常に心に
「不在であるにも関わらず、いつも家庭の空気の中には父の存在が充満していました。ある意味で、わからないものへの恐怖というか……。それなのに、晩年、体の具合が悪くなった父を助けざるを得ない状況になったときは、『父には何もしてもらっていないのに』とものすごく葛藤しました。そんなとき母は、『あなたが生まれてきたことが最大のギフトなのだから、そのことだけでも感謝しなさい』と言うのですが、理屈ではわかっていても、感情的には理解できませんでした。さらに、変な話ですが、父にはガールフレンドがいっぱいいて、子どものときに母親と一緒に出くわしたこともありました。でも母は、そういう女性にもお礼を言うんです。思春期の私は母の行動が理解できなかったのですが、『あんな大変なお父さんの日常の世話をしていたら死んでしまう。同時にいろいろな人が面倒見てくれて助かるでしょ』と、本当に心から感謝しているんですよね(笑)」。