岡田准一の特異なスター性、非凡な映画を「誰もが楽しめる」エンタテインメントへ昇華
別の役割を果たす、岡田准一=主人公の「浮いた」存在感
そして、岡田准一=主人公の「浮いた」存在感は、別の役割を果たしてもいる。前述した通り、本作には、シリアスな物語をコミカルに描くという基本路線があるのだが、観ていくうちに、悲劇と喜劇が混濁していく。無表情に徹する岡田=主人公の顔つきが、悲劇なのか喜劇なのかを「わからなくする」と言ってもいい。
あったはずの境界線がどんどんどんどん抹消されていき、切なくなることと、笑ってしまうことが、同一線上に並ぶことになる。あえて乱暴な言い方をすれば、「どうでもよくなる」。これもまた、すこぶる快適だ。なにしろ、余計なことを考えなくて済む。あるときは悲しい、あるときはコメディ。それで全然オッケーじゃん、という大らかな気持ちにさせるのだ、岡田=主人公の顔は。
岡田准一と言えばアクションに定評がある。今回も自らアクションをコーディネートしており、抜かりはない。だが、その活劇純度とはまったく別の次元で、彼はとんでもない仕掛けをしている。
着くところまで行き着いた岡田准一の活劇魂
顔の部分だけを観ていたら、岡田かどうかの判別はつかない。だが、アクションや肉体を見つめていれば、それが岡田准一に他ならないという事態に、わたしたちは遭遇する。なんという、ねじれた提示だろう!
活劇魂が行き着くところまで行き着くと、こうなるということか。顔なんて観るな!アクションだけを観ろ!そんな無言の叫びさえ聴こえてくる。真っ当すぎて異様。この迫力もまた、本作の独自性である。
主人公が「浮くこと」。悲劇と喜劇の混じり合うこと。このふたつを、無表情の顔で成立させ、最終的には、それさえも隠すことで、「顔のない活劇」を繰り広げる。序破急の三段階。
岡田准一のおそるべき進化形態によって、非凡な映画は、見事に「誰もが楽しめる」エンタテインメントに昇華しているのである。
(文/相田冬二)