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岡田准一の特異なスター性、非凡な映画を「誰もが楽しめる」エンタテインメントへ昇華

別の役割を果たす、岡田准一=主人公の「浮いた」存在感

『ザ・ファブル』(C)2019「ザ・ファブル」製作委員会

『ザ・ファブル』(C)2019「ザ・ファブル」製作委員会

 主人公は、殺し屋であることを隠しているので、弱いフリをする場面があるのだが、そのフリが極まっているため、逆に異様なまでの戦闘能力が露呈するという反転が起きてもしまう。これも、岡田准一の芝居がそうなっているのか、そもそも主人公がそういう人間なのかが、わからなくなる。で、わからないことが爽快なのだ。

 そして、岡田准一=主人公の「浮いた」存在感は、別の役割を果たしてもいる。前述した通り、本作には、シリアスな物語をコミカルに描くという基本路線があるのだが、観ていくうちに、悲劇と喜劇が混濁していく。無表情に徹する岡田=主人公の顔つきが、悲劇なのか喜劇なのかを「わからなくする」と言ってもいい。

 あったはずの境界線がどんどんどんどん抹消されていき、切なくなることと、笑ってしまうことが、同一線上に並ぶことになる。あえて乱暴な言い方をすれば、「どうでもよくなる」。これもまた、すこぶる快適だ。なにしろ、余計なことを考えなくて済む。あるときは悲しい、あるときはコメディ。それで全然オッケーじゃん、という大らかな気持ちにさせるのだ、岡田=主人公の顔は。

 岡田准一と言えばアクションに定評がある。今回も自らアクションをコーディネートしており、抜かりはない。だが、その活劇純度とはまったく別の次元で、彼はとんでもない仕掛けをしている。

着くところまで行き着いた岡田准一の活劇魂

 なんと黒マスクを被ったまま、アクションを続けるのである。

 顔の部分だけを観ていたら、岡田かどうかの判別はつかない。だが、アクションや肉体を見つめていれば、それが岡田准一に他ならないという事態に、わたしたちは遭遇する。なんという、ねじれた提示だろう!
 活劇魂が行き着くところまで行き着くと、こうなるということか。顔なんて観るな!アクションだけを観ろ!そんな無言の叫びさえ聴こえてくる。真っ当すぎて異様。この迫力もまた、本作の独自性である。

 主人公が「浮くこと」。悲劇と喜劇の混じり合うこと。このふたつを、無表情の顔で成立させ、最終的には、それさえも隠すことで、「顔のない活劇」を繰り広げる。序破急の三段階。

 岡田准一のおそるべき進化形態によって、非凡な映画は、見事に「誰もが楽しめる」エンタテインメントに昇華しているのである。
(文/相田冬二)

提供元: コンフィデンス

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