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(更新: ORICON NEWS

泣きよりも笑いを撮りたい「カメラを止めるな!」上田慎一郎監督

映画を撮り続けていた思春期

 ≪自分の人生をも「コメディ」として捉えているという上田氏。将来なりたい職業として映画監督のほかにお笑い芸人もあったという。中学生時代から映画監督の才が表れていた上田氏。どのような人生を歩んできたのか。今の彼を“形成”した生い立ちを振り返る≫

――幼少期の思い出は?
 漫画や音楽、映画、ゲームもそうですし、中学校や高校は特に、出席日数がギリギリになるぐらい、そうしたものに溺れていた感じです。僕らは『プレステ』や『セガサターン』の直撃世代でしたから、『ファイナルファンタジー』の新しいシリーズが出たら3日ぐらい学校を休んで「他の誰よりも進むぞ」みたいな。僕の出身が凄く田舎だったんですよ。人口が1万人に満たないぐらいで。映画館に行こうと思っても1時間ぐらいかかる。なので、地元に1軒だけある小さなビデオショップに映画をレンタルしに行ってました。

 自分の周りの友達に映画好きな人が多くて、当時はVHSとDVDの移行期で、VHSが1万6千円ぐらいした時代です。例えば、誰か一人が映画のVHSを買って、それをみんなで一緒に見るようなことをしていました。僕がビデオショップで『地獄の黙示録』を借りたら店主に「君は中学生でもう『地獄の黙示録』を見るのか、有望だね」みたいに言われたことがあります(笑)。

上田慎一郎監督(C)MusicVoice

上田慎一郎監督(C)MusicVoice

――映画監督の道に歩もうと思ったきっかけは?
 家に正義のヒーローみたいなおもちゃや怪獣とかがいっぱいあって、それを勝手に戦わせたりして自分で物語を作ったりしていたんですね。最初に脚本を書いたのが中学1年生ぐらい。国語の授業の時に、班ごとに分かれて演劇をしましょうということになって。他の班は『桃太郎』や『金太郎』など既存の物語を選んでいましたが、僕は先生に「オリジナルをやりたい」と言って。オリジナルの本を書いて僕らの班でやったんですよ。それが好評で「これは全校の前でやろう」という事になって「上田君、学年全体でキャスティングし直していいから」と。3年生を送る会で全校の前で公演しました。キャスティングして、小道具も作って。それがちゃんとした形で作品として見せたものとしては最初でした。

 「映画が好きになったきっかけの作品はありますか」と聞かれるんですけど、明確な作品は覚えてなくて、友達のお父さんの本棚に山ほど映画のビデオがあったんです。友達の家に行くたびに借りて、浴びるように映画を見て、それに飽き足らずビデオショップに行って。いつしか映画が好きになってました。

 中学校の頃に父親に買ってもらったビデオカメラがあったので友達と自主映像を撮り始めて。高校の文化祭では、まわりがお化け屋敷とかたこ焼き屋さんなどをやっているなかで、僕らは30分くらいの短編映画を作ったんです。クラスメイトでキャスティングをして脚本を書いて音楽をつけて、学校で上映するという。作品という形で映画を作ったのはそれが初めてかな。高校1年生の文化祭で作った『Longest』という作品で、内容はクラスのマドンナが転校することになって…というそれを巡る若者の群像劇です。

 それで高校2年生、高校3年生と毎年文化祭で映画を作りました。高校2年の時は1時間ぐらいの『交差点』という作品を、高校3年生の時に『タイムトラベル』という2時間ぐらいの作品を。この作品は現代の高校生が戦争時代にタイムスリップするというものでした。

――脚本も全部やられたんですか?
 脚本、監督、主演が僕でした(笑)。高校1年生の文化祭で作った時に、地元の友達が「俺も作る!」と言って、映画を作るのが流行ったんです。それで友達たちと作った映画3本ぐらいを集めて地元のホールで上映会みたいなものを開いたりして。そういうことをしていましたね。

――その当時は将来こうなりたいというのは?
 どうなりたいというのはまだ考えていなかったと思いますね。とりあえず、映画監督になりたいなというのは漠然と考えていたかもしれないです。そういう映画・映像作りというのと並行してその友達と一緒に漫才をしたり。「今度何曜日何時から駅前でやりますので来てくださいね」とか、可愛い女の子のグループとかに「来てください」とか(笑)。それと毎年のように僕ら滋賀県の琵琶湖を一周する自転車の旅をしていて、宿は取らずにどこかに泊めてもらえるまで古民家に頼み込むというもので、それをビデオカメラに撮ってドキュメンタリー映像にしたりして。他にもコントを何本も撮ったりとか。いろんなことをしましたね。

 中学校から高校の最初の方まではサッカー部だったんです。先ほど高校の文化祭で映画を撮ったという話をしましたが、3学年全体の最優秀賞を3年連続で獲って。それで演劇部の先生から高校2年の終わりぐらいに、演劇部に来てくれと誘いを受けまして、入って。作・演出・主演をやりまして、演劇部も大会があるんですよ。うちの高校は毎年地区予選落ちだったんですけど、僕がやった舞台で近畿360校中2位までになったんです。「デスケープ」という作品で、地獄からエスケープ、脱出するシュールなコメディ。1位だったら全国大会に行けたんですけどね。

 そうしたこともあって大学から「うちの演劇部を任せたい」などのオファーが来ました。しかし、当時は調子に乗っていたので「ハリウッドに行くぞ」と意気込んでいて、そういうオファーは全部蹴って。英語を1年間学んでからハリウッドに行こうと思い、大阪の英語専門学校に通いました。でも、馴染めなくて3カ月ぐらいで中退しまして…。それが19歳くらいですかね。

――その後はヒッチハイクで上京したと聞きましたが。
 お金がなかったので…(笑)。大阪でちょっとした詐欺に遭って、お金を取られたとかじゃないんですけど、高校の時に作った戦争映画が大手事務所の目に留まったということを、バイト先のおっちゃんが言っていて、それも全部嘘だったんですけど。僕はその事務所に行くという感じになってたからバイトも辞めて。アメリカでの仕事が多くなるという話をその人が言っていたので、英語の勉強をして…英語の学校辞めたばかりだったのに(笑)。それが全部嘘で、もう全て失ったということで、映画監督になるんだったら東京だろと。お金もなかったのでヒッチハイクで東京に向かいました。

上田慎一郎監督(C)MusicVoice

上田慎一郎監督(C)MusicVoice

――東京に出てからは映画を撮り続けていたんですか?
 いいえ。20歳から25歳までは全く映画を撮っていなくて。ネズミ講みたいなビジネスに騙されたり、自費出版で小説を出版したりとかで200万円ぐらいの借金を数回したんです。それで一時期、ホームレスになったんですけども。当時はピュア過ぎたと言いますか…。20歳で上京して映画監督を目指すんですけど、どうやってなったらいいか分からなくて、自主映画を撮って映画祭に応募することとかも、なんでか頭になかったんです。近道をしようとして遠回りばかりしてた。

 それで24歳の夜ですかね。「俺は何のために東京に出てきたんだ」決意を新たにして。映画に集中しようと思い、SNSサイトで、自主映画の制作団体がスタッフを募集していたので、そこに応募しました。て初めてガンマイクを持って、大きいカメラを構えて撮って、編集してという本格的な映画制作をそこで学んで。その自主制作団体が「STUDIO MAYS(スタジオメイズ)」というところです。そこに3、4カ月ぐらいいて、1本短編も作りました。それで「あ、これもうできるわ」と調子に乗ってすぐ独立して映画製作団体『PANPOKOPINA(パンポコピーナ)』を立ち上げて自主映画の制作を始めました。

 映像業界の人との繋がりも出来て、映画祭のプロデューサーをやってくれないかと言われて。新宿歌舞伎町でおこなわれた短編映画祭のプロデューサーとして全国から応募されてきた作品の選考をやることになりました。その時、応募してきた中に今の妻(アニメ・映画監督=ふくだみゆきさん)がいて出会いました。それから、僕の団体で映画つくりを手伝いたいと来るようになって、一緒に映画を作るようになりました。妻は実写もアニメもどちらもやるのですが、短編アニメ「こんぷれっくす×コンプレックス」で第72回毎日映画コンクールで自主制作アニメ初のアニメーション映画賞(第71回は「君の名は。」が受賞)をいただきました。

「カメラを止めるな!」上田慎一郎監督(C)MusicVoice

「カメラを止めるな!」上田慎一郎監督(C)MusicVoice

――その後、数々の短編映画を手掛け、2018年時点、国内外の映画祭で46の賞を受賞されたと。
 僕は監督として最初に『お米とおっぱい。』という1本長編の自主映画を撮って、その後に7本連続で短編を作って(「恋する小説家(11年)」「ハートにコブラツイスト(12年)」「彼女の告白ランキング(13年)」「Last Wedding Dress(14年)」「猫まんま(15年)」「テイク8(15年)」「ナポリタン(16年)」)、有難いことに国内の短編映画祭などで沢山の賞を頂きました。そして今回、劇場用長編としては初めてとなる長編を作りました。それが『カメラを止めるな!』です。

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