ドラマ&映画 カテゴリ

日本映画はなぜミュージカルと仲良くなれないのか

ひとつのアイデアでミュージカルの大前提を転覆させた『ダンスウィズミー』(C)2019「ダンスウィズミー」製作委員会

ひとつのアイデアでミュージカルの大前提を転覆させた『ダンスウィズミー』(C)2019「ダンスウィズミー」製作委員会

 矢口史靖監督の『ダンスウィズミー』は大変な野心作である。その野心はまず、タイトルが『ダンス・ウィズ・ミー』でも『DANCE WITH ME』でもなく『ダンスウィズミー』であることに表れていると思う。私たちは考えなければいけない。ナカグロなしで3つの語句を連結させる意志が目ざしている地点はどこか。

スクリーンのなかで日本人が歌い踊ることへの違和感

 日本映画はなぜ、ミュージカルと仲良くなれないのか。観客がミュージカル嫌いなわけではない。『ラ・ラ・ランド』は多くの映画ファンに愛されているし、『アラジン』などミュージカル仕立てのディズニー映画も好きだし、そもそも劇団四季はあれだけの支持を受けているではないか。

 つまり、舞台は大丈夫だが、スクリーンのなかで日本人が歌い踊ることに、どうしても違和感がある。それが、日本人の大方の率直な感想ではないのか。欧米人やインド人が銀幕で歌い踊る姿は純粋にエンタテイメントとして享受することができる。だが、日本人にそれをやられてしまうと、途端に恥ずかしくなる。劇団四季がOKなのは、基本的に翻訳ものだからなのだろう。おそらく、日本人が日本人として日本人の物語を歌い踊ると、途端にアレルギーが発症してしまう。

 矢口は果敢にも、この日本人にとっては「花粉症」レベルの病理を「除去」するべく、大胆不敵な「手術」をおこなう決意をした。おそらく。
 さて、その「オペ」は成功したのか、否か。

「医師」矢口史靖監督が手がけた「手術」の特異な点は第一に、主人公が自ら進んで踊るのではなく、催眠術にかかり、「仕方なく」踊るという設定にある。ヒロインのOLは、幼少期の辛い体験が原因で、ミュージカルに対して拒否感がある。そんな彼女が、怪しげな催眠術師のショーを「観てしまった」ことで、音楽を耳にすると、踊らずにはいられなくなる……。

 つまり、自分の意志に反して、身体がダンスを始める。踊るつもりなどないのに、踊るしかなくなる。この乱暴と言えばかなり乱暴、おもしろいと言えばかなりおもしろいシチュエーションを「開発」したことは特筆すべき快挙である。前例のない「オペ」に挑む以上、アイデアがなくてはいけない。「手術」を成功へとたどり着かせるためのアイデアが。

ミュージカルとホラー、観客を感情移入させやすい共通点

 ミュージカルは、登場人物が、自身の感情に任せて、あるときは高揚感を、あるときは悲しさを、歌やダンスに託す表現である。つまり、それはキャラクターの「心の発露」なのだ。だが、『ダンスウィズミー』は、このミュージカルの大前提を、ひとつのアイデアで転覆させる。

 ヒロインは言ってみれば、操り人形。踊っているときは、つい高揚してしまうが、踊り終えると、自己嫌悪に陥る。見ようによっては、これは呪いにとりつかれた女性の狂おしいほどの厄災に他ならない。つまり、ホラーだ。

 ミュージカルとホラーには共通点がある。それは観客を感情移入させやすい点。ミュージカルは、前述したように、自由に感情を解放することで、ホラーは極限状況におけるドキドキを用意することで、観る者がシチュエーションを体感しやすくなる。

 だが、『ダンスウィズミー』は、この法則に完全に背を向けている。徹底的に観客を傍観者にするのだ。哀れな「被害者」である主人公の道行きを、眺める。あくまでも第三者として傍観することで、悲劇は喜劇と化す。

 催眠術にかかったヒロインに同化して、「わたし、もう、どうなっちゃうの……」と不安になる観客はほとんどいないだろう。それよりも、この特異なシチュエーションを「ありえないドタバタ」として処理し、笑うこと。それが自然なことになるように、本作は設計されているし、このことこそが最大の野心だったように思う。

『ダンスウィズミー』の根底に、映画ジャンルに対する「批評性」

 つまり、これはミュージカルならざるミュージカルであり、ミュージカルの法則を転覆させた新種のコメディなのだ。ある種の「行き過ぎた」ホラーが笑えるように、ミュージカルの軌道を外れたこの映画も笑えるはずであった。根底には、映画ジャンルに対する「批評性」があった。

 だが、結果はどうだったか。
 とある土曜日、7割ほど埋まったシネコンでこの映画を観たが、ミュージカル場面では、なぜか笑い声は一切起きなかった。おそらく、ほとんどの観客は困惑していたのだと思う。

 後半、映画は日本的な「情」に根ざしたロードムービーに舵を切る。催眠術を解いてもらうため、怪しげな催眠術師を探す旅。そこでは、安堵が大量に含まれた笑いが、ポツポツ生まれていった。映画館を去る客たちは、大方、作品に満足しているように思えた。だが、肝心の和製ミュージカルへの「手術」は、受け入れられたとは言い難い。

 思うに、大部分の観客は、映画ジャンルの「革新」を求めてはおらず、できれば安心して楽しめるものを求めているのではないだろうか。その象徴が、エンディングのミュージカル・シークエンスである。これは、どんなミュージカルにも当たり前にある定番の場面であり、そのとき、観客は心から楽しんでいるように思えた。

「手術」は決して失敗ではなかった。だが、アレルギーが完全に「除去」されたとは言い難い。いつの日か、今回の挑戦を振り返ることができるかもしれない。日本人の、日本人による、日本人のためのミュージカルは、まだ始まったばかりだ。
(文/相田冬二)

提供元: コンフィデンス

あなたにおすすめの記事

メニューを閉じる

 を検索