岡田准一の特異なスター性、非凡な映画を「誰もが楽しめる」エンタテインメントへ昇華
やりすぎていない「居心地の良さ」とほどよい脱力感
つまり、やりすぎていないのだ。
一見、複数のジャンルを横断する、ボーダレスな印象がある映画だが、それぞれの要素がやりすぎていないから、疲れないで済む。ほら、よくあるでしょ。本格志向すぎて、あんまりくつろげない飲み屋が。そういう、ところが一切ない。
キャラクターの味つけは濃いめ。木村文乃の豪快な飲みっぷりも、柳楽優弥の仔犬がきゃんきゃん吠えるような虚勢の張り方も、福士蒼汰の無邪気な殺し屋ムードもてらいがなく、躊躇なく振り切ってはいる。だが、それぞれがトッピングされたとき、まったく重苦しくならない。演技派たちがデフォルメされた演技に徹しているなか、佐藤二朗がいつもの風情で平然とニヤニヤしていても、なんの違和感もない。そうか、そうだよな、こういう世界観なんだよな、と理屈抜きで納得してしまうような、ほどよい脱力感がある。
主人公が妙な「浮き方」をする、愛おしくもある違和感
すご腕の殺し屋が「普通の生活」をする。そのミッションの行方を描く物語だが、幼少期から普通には生きてこなかった男が普通を手探るうちに、人情らしきものに出逢うというのが、メンタル的には大きな部分ではある。だが、シリアスなストーリーを、いい意味でガサツで、品のない笑いでラッピングしていく筆致が浮き彫りにするのは、主人公の「普通ではいられない」部分だ。
岡田は、そんな主人公をクソ真面目な顔つきで演じており、この徹底ぶりが、可笑しくもあり、哀しくもあり、可愛くもあり、なんとも言えなくともあり、という「とりとめのなさ」に誘う。明快な脇キャラとは対照的に、主人公が妙な「浮き方」をしている。この、愛おしくもある違和感こそが、映画の緩急をかたちづくっている。
物語的に「浮いている」のは当然のはずなのだが、その「浮き方」が独特のため、不思議な気分になる。料理で言えば、本来スパイスは味を引き立てるために用いるものなのに、スパイスそのものがメインディッシュになっているような、そんな感覚に陥る。で、それがすこぶる気持ちがいい。